●(承前)紳士は何がお好き? ― ひとはいかにして究極のヒッチコック=ホークス主義者となるのか ― 『日曜日が待ち遠しい!』(1983 フランソワ・トリュフォー)再訪(蔵出し原稿)

2019年04月27日

前回、予告したように、今回もまた、ホークスとヒッチコック映画についての話を続けることにしよう。

さて、ハワード・ホークスとアルフレッド・ヒッチコックというそれぞれ固有の映画世界を橋渡し的に繋ぐ人物といえば、ケーリー・グラントのほかにも、忘れてはならない重要な映画人がいる。既に何度も説明済みの通り、従来、娯楽映画の単なる職人監督とみなされていたこの2人を偉大な映画作家として熱烈に顕揚・称賛し、「作家主義」の映画批評を決定的に打ち立てた元祖"ヒッチコック=ホークス主義者"の一人、フランソワ・トリュフォーその人である。そしてトリュフォーといえば、やはり"脚フェチ"の映画作家としても知られ、「ハワード・ホークス映画読本」を締め括る巻末の蓮實重彦・山田宏一・両氏の対談の中では、次のように示唆に富んだ鋭い指摘がなされている。

  • 蓮實「『教授と美女』(1942)のバーバラ・スタンウィックもそうです が、なぜか雨が降っているところに女がとびこんでくる。」

    山田「そういえばそうですね。ビショ濡れになってとびこんでくるんですね。『永遠の戦場』(1936)もそうですよね。」

    蓮實「そうです。あれを見てぼくはハッとしました。トリュフォーの遺作の『日曜日が待ち遠しい!』のファニー・アルダンもほとんどあれと同じでしょう。天窓から足を見るというやつね。」

    山田「あ、あれは、同じ半地下じゃないですか。」

    蓮實「『日曜日が待ち遠しい!』の半地下室を見てこれは絶対に原典があるぞと思ってたんですが、『永遠の戦場』をみて納得が行きました。だって、あのファニー・アルダンの振舞いってとてもホークス的でしょう。協力してるんだけど妨害する女というのは、『赤ちゃん教育』(1938)のキャサリン・ヘップバーン、『ヒズ・ガール・フライデー』(1940)のロザリンド・ラッセル、『僕は戦争花嫁』(1949)のアン・シェリダンみたいに、助けてやろうと思えば思うほど男を窮地に陥らせてしまう(笑)。」

というわけで、今回の筆者の個人的なホークス復習の最後の仕上げというかオマケのつもりで、トリュフォーの『日曜日が待ち遠しい!』も実に久しぶりに見返してみたら、これがまた、ドンピシャリのタイミングによるうってつけの作品チョイスとあいなり、これまで見落としていたり、すっかり忘れていたさまざまな細部にしっかり焦点が合うようになって、あれこれ新たな発見をしてしまった。


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トリュフォーといえば、皆も御存知の通り、ヒッチコックへの長時間連続インタビューを敢行して、「作家主義」批評のバイブルともいうべき歴史的名著「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」を世に問い、それをもとにした新作ドキュメンタリー映画『ヒッチコック/トリュフォー』(2015 ケント・ジョーンズ)が、つい最近劇場公開されたばかり。そしてまた、今回筆者が見直すのに用いた『日曜日が待ち遠しい!』の日本版DVDには、映像特典のひとつとして、トリュフォーが52歳で急逝する年の1984年に収録されたTV討論番組「ヒッチコックを語る」が入っていて、スリリングな犯罪サスペンス映画であると同時に、軽妙なロマンチック・コメディの要素も渾然一体となったこの『日曜日が待ち遠しい!』も、映画ファンからすると、ついヒッチコック映画との関連から眺めたくなるのが、自然な流れ。

実際、この映画は、優柔不断であまり身動きの取れない男性主人公のジャン=ルイ・トランティニャンに成り代わって、活発で行動的なヒロインのファニー・アルダンがスリルと危険に満ちた冒険を嬉々として繰り広げるという、『裏窓』(1954)風の物語をはじめ、アルダンがハンドルを握って雨の夜道を車で走る『サイコ』(1960)風の画面、さらには、背中にナイフを突き立てられた被害者がよろよろと歩み出てはがっくりと崩れて息絶える殺人シーンなど、いかにもヒッチコック的なムード溢れる場面も多々出てくる。

けれども、先に引用した蓮實・山田両氏の対談が的確に言い当てている通り、『日曜日が待ち遠しい!』はむしろ、さまざまなホークス映画との関連で眺めた方が分かりやすく、ヒッチコック~トリュフォーを繋ぐラインだけでなく、ホークス~トリュフォーを密接に繋ぐホットラインもしっかりと見えてくるはずだ。

映画の冒頭、子犬を連れたヒロインのアルダンが、ジョルジュ・ドルリューの心浮き立つような軽快なメロディに乗って、舗道を軽やかな足取りで溌剌と歩く場面は、あの『赤ちゃん教育』で豹をペットとして連れ歩くキャサリン・ヘップバーンをつい想起せずにはいられない。その一方で、社長役のトランティニャンの女秘書であると同時に、アマチュア劇団の一員として仕事の合間に芝居の稽古に励む彼女は、殺人の容疑がかかったトランティニャンの苦境を救うため、ある日、舞台衣裳のままリハーサルを抜け出して、しばしの間、いささか時代がかった丈の短いコスチューム姿であちこちを奔走することになるわけだが、これは、ギャングの情婦であると同時にショーガールでもある『教授と美女』のバーバラ・スタンウィックが、自らのショーを終えた直後にナイトクラブを抜け出し、やはり派手な舞台衣装のまま、ゲーリー・クーパーら、世間知らずの教授連の前に姿を現すさまを彷彿とさせる。

『日曜日が待ち遠しい!』でアルダンが演じるヒロインの役名は、Barbara Becker(フランス語読みでバルバラ・ベッケル)。上の名のバルバラはきっと、『教授と美女』のバーバラ・スタンウィック Barbara Stanwyckから採られたものに違いない。そして姓の方のベッケルは、既に多くの人が指摘する通り、トリュフォーの敬愛するフランスの映画作家ジャック・ベッケルから採られたものだろうが、これは若き日のトリュフォーが、ジャック・リヴェットと共に「カイエ・デュ・シネマ」誌の取材でホークス監督本人にインタビューした際、その場にベッケルがホークスの友人兼通訳として立ち会ったことへの感謝の念をこめてつけられたものとみて、まず間違いないだろう(この画期的なインタビュー記事は、「ひとはどうしてヒッチコック=ホークス主義者でありうるのか?」というアンドレ・バザンの名高い文章と共に、「作家主義 映画の父たちに聞く」(奥村昭夫訳)の中に収録されている)。

映画の中盤には、トランティニャンからいったんは秘書役のクビを宣告されたアルダンの前へ、新たな秘書候補の金髪の若い娘が姿を見せ、アルダンが、トランティニャンになり代わって彼女の面接テストを執り行なうという場面が出てくる。ここで金髪の若い娘は、一本指によるタイプ打ちの早業という、なかなか侮りがたい意外な力量を披露してみせ、「社長は金髪がお好きだから、きっとあなたを気に入ったのに違いないのに残念ね」と、アルダンが半ば冗談めかして言う台詞は、無論、『紳士は金髪がお好き』(1953)に対する目配せであると同時に、空位となりかかった座をめぐる新旧ライバル同士の対決(例えば『リオ・ブラボー』(1959)では、ジョン・ウェインの保安官助手たるディーン・マーティンの地位を、若いリッキー・ネルソンが脅かすことになる)、あるいは、もっと分かりやすく言い換えるならば、ずばり"ヒズ・ガール"のポジションをめぐる熾烈なライバル争い、というのは、これまたきわめてホークス的な事態といえるだろう。筆者が以前書いた以下の文章も、どうかご参照あれ。https://urx.space/hGvn

さらには、この映画の後半、実は売春組織の巣窟となっているあやしげなナイトクラブへ、その内情を探り出すべく自らも娼婦の恰好をして乗り込んだアルダンが、いったんはそこから追い出されそうになった後、咄嗟にトイレへ身を潜めようとしたところで、ドアノブが不意に外れてしまってその中に幽閉状態となるのは、前回の記事で紹介した『僕は戦争花嫁』(1949)でケーリー・グラントが陥る苦境とよく似ている(ただし、同作のグラントとは対照的に、ホークス的ヒロインたるここでのアルダンは、難なくドアノブを直してそこから脱出することに成功してしまう)。


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しかし、この『日曜日が待ち遠しい!』とさまざまなホークス映画を何より密接に結び付ける最大の鍵となるのは、トランティニャン演じるこの映画の男性主人公の"脚フェチ"というきわめて特異な性的嗜好・偏愛趣味なのだ! 

この映画でのトランティニャンは、女性たちの脚の美しさにこよなく魅せられた"脚フェチ"の男性として描かれ、自分よりもずっと年下の金髪の若い妻が、自分の狩猟仲間と浮気を働いていたと知って、ついに意を決して彼女に離婚話を切り出すものの、悪妻たる彼女が、彼の言葉は軽く受け流してその自慢の脚線美を挑発的に見せびらかすと、たちまちそれに悩殺されて頭の中が空っぽになってしまう。

そして、その後、妻とその浮気相手の双方を殺した容疑で警察に追われる身となった彼は、自らの仕事場の半地下室に身を潜めて半ば幽閉状態となり、なすすべもないまま、その部屋の上方に取り付けられた採光窓の曇りガラスから、戸外の道を歩く女性たちの脚をただひたすら眺めやっては、我を忘れてうっとりと恍惚の表情を浮かべるばかりなのだ。

この、半地下から窓外の女性の脚を仰ぎ見るという、『日曜日が待ち遠しい!』の"脚フェチ"男トランティニャンの何ともユニークで印象深いイメージの発想源となったのが、冒頭に引いた対談の中で蓮實氏が鋭く指摘するように、おそらく『永遠の戦場』の前半に登場する鮮烈な一場面 ― 第1次世界大戦中のフランスの戦地を舞台に、とある建物の半地下室でピアノを弾いていた将校のフレデリック・マーチが、窓を通して外に立つ女性の脚を目にして、空襲で逃げまどう従軍看護婦のジューン・ラングを室内に導き入れ、かくしてまるで現代のお伽話のようにして美男美女が運命の出会いを果たす ― であるに違いない。

筆者は今ごろになって、さまざまなホークス映画における"脚フェチ"の反復的主題とその豊かなバリエーションに気づいて、あれこれ遠回りをした末、この『日曜日が待ち遠しい!』にも最後にようやく辿り着いて、ホークスとトリュフォーを密接に繋ぐ、何やら秘密結社の会員同士による暗号のやり取りめいた不思議な知(痴?)の奥義の伝授・継承の解読にどうやら成功したような気がするのだが、しかし、やはり、蛇の道は蛇という喩えもある通り、分かる人にはすぐピンときて、難なくその点を目敏く見破ることが出来たに違いない(ひょっとすると、昨年、三島由紀夫賞受賞の話題のポルノ小説「伯爵夫人」を刊行した元東大総長にも、実はそちらのひそやかな趣味があるのだろうか?)。 

はたしてトリュフォーのその"脚フェチ"趣味が、数多くのホークス映画を見続けたことから自然と生じたものなのか、それとも、トリュフォー自身、既に先天的にその気質を持ち合わせていたのか、そのあたりの立ち至った微妙な問題に関しては、筆者は何とも答えようがないが、いずれにせよ、トリュフォーは、この『日曜日が待ち遠しい!』に先立つ多くの作品の中にも、既に"脚フェチ"的主題をさまざまに盛り込んでいた。

とりわけよく知られているのが、まさに"脚フェチ"の男性を主人公に据えた『恋愛日記』(1977)で、全編これ、"脚フェチ"的主題のオンパレード。事故で急逝した主人公のシャルル・デネルの葬儀に参列すべく、彼と関わりのあった女性たちが三々五々集合するところから始まるこの映画では、地中に埋められる彼の柩を見やりながら、これであなたの一番好きな角度から女性たちの脚が見られるわねと、ヒロインのひとりのブリジット・フォッセイの内的独白がナレーションで語られるのに続いて、柩のそばに立つ女性たちの脚が、死者たる主人公の視点を借りて地中の柩から見上げる形で次々と映し出される。

そしてこれに続く場面では、生前のデネルが、クリーニング店でふと目に留めた女性の美しい脚にたちまち魅せられ、店から去っていく彼女の後ろ姿を、やはり半地下の店のガラス窓から見送るワンカットがあるのを、今回改めてこの作品も久々に見返して確認した(ただし、この『恋愛日記』はどうも、ホークス映画というよりは、既に多くの指摘があるように、これまた"脚フェチ"の映画作家として名高いルイス・ブニュエルの映画からの影響の方が色濃い気がする)。

そしてまた、ジャン=ピエール・レオがトリュフォーの分身的主人公を演じた、御存知「アントワール・ドワネル」ものの連作の1本、『夜霧の恋人たち』(1968)では、靴屋の店員となったレオが、ある晩、店主の妻である年上の金髪の美女デルフィーヌ・セイリグが彼の眼前であれこれ靴を履いて試す姿を目の当たりにして、ぞっこん彼女に惚れ込んでしまう。

さて、ここで改めて、『日曜日が待ち遠しい!』に立ち戻ることにしよう。この映画は、トリュフォーが、往年のハリウッドのフィルム・ノワール調のスタイルを模してあえてモノクロ画面で撮影しているし、それにまた、男性主人公のトランティニャンが、最終的にはブルネットの髪のヒロイン、アルダンと結ばれるために、つい見過ごしがちになるが、しかしここでのトランティニャンは本来、"金髪がお好き"で、なおかつ"脚フェチ"の男として二重のキャラ設定を施されていた。既に以前の記事でも筆者が指摘しておいた通り、『紳士は金髪がお好き』とは、ホークス映画の題名のひとつであると同時に、ヒッチコック映画の男性主人公を端的に指し示す特権的指標でもある。

"金髪好き"と"脚フェチ"の幸福な合体。これぞまさに、ヒッチコック=ホークス主義の究極の体現者と言わずして、一体なんだろう! そう、トリュフォーは、批評家時代から一貫してヒッチコック=ホークス主義者であり続け、これが惜しくも最後の作品となったこの『日曜日が待ち遠しい!』においても、その両者を一つに統合した独自の映画世界を生み出すことに成功していたのである。


[2017.1.28 旧ブログ「In A Lonely Place」にアップ]