●鈴木清順(蔵出し原稿)

2020年10月14日

上島春彦氏の圧巻の新著「鈴木清順論 影なき声、声なき影」を前回紹介したのに併せて、今回は、筆者が以前書いた清順関連の文章をここにまとめて蔵出しすることにします。従来流布してきた清順の神話的映画作家像を鮮やかに刷新し、「むしろ知らない清順の顔をそこに存在せしめる」上島氏の瞠目すべき著書が出た以上、本来ならここで筆者も、改めて構想をイチから練り直して新たな清順論に取り組む必要があるものの、前回も書いた通り、上島氏が長年の歳月をかけ、心血を注いで完成させた金字塔的傑作を前にして、こちらは、今はただもう圧倒されるばかりで、その内容を充分理解・咀嚼するまでには、まだまだ時間がかかりそう。

今回蔵出しする旧稿にもあれこれ手直しする必要があるものの、ここでふと振り返って考えてみると、筆者自身、作家論めいた長めの映画の文章を書いたのは、奇しくもこの清順論がたしか最初で、それなりに愛着があるのと、上島氏の新著にも、恐縮ながらこの拙文のことを言及して頂いたので、この際、今回はあえて手を加えず、そのまま再掲する次第。どうか寛大な御心をもってお読み下さい。

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鈴木清順の映画を見るとは、平衡感覚や方位を失ったまま、どこまでも迷宮世界をさまよい歩くことだ。彼の作品は、決して起承転結をそなえた調和ある世界を構成しはしない。物事は、常に時間的・空間的継起を欠いて不意に生起し、作品の細部が全体の中におとなしく納まることなく、いたるところで立ち騒ぎ、突出し、逸脱する。

いや、そもそも彼の映画においては、部分対全体という主従関係を述べること自体、意味をなさない。なぜなら、彼の作品は初めから、通常の作品が不思議と律儀に兼ね備えているヒエラルキーとかパースペクティヴといったものを持たないからである。従って、彼の織り成す作品世界は、たとえ『ツィゴイネルワイゼン』(1980)や『陽炎座』(1981)のように、細部と細部が密接に絡み合った巧緻なモザイクを想起させるものであっても、その形はそれ自体で完結した一つの球体というより、『文化生活一週間』(1920バスター・キートン&エディ・クライン)でキートンが作り上げる、あちこちが出っ張ったり引っ込んだりしているあの奇妙なマイホームに近くなる。

それは具体的にはどういうことなのか。幾つか例を挙げてみよう。まずは色彩。本来なら画面の背景として配置されたはずの椿だの、ポストだの、部屋の襖だの壁などが、派手な原色を与えられることによって、不意に我々の視界にせり出してきたり、逆にその原色の単一性の醸し出す平面的な感じが、画面の奥行きというものを奪い取る。

関東無宿
関東無宿

それから、数々の奇妙な建築構造がもたらす空間の歪み。キャバレーや映画館の裏などにしつらえられた暴力団事務所、互いに斜めに合わさった下宿部屋、あるいは家の宙空に浮かんだ子供部屋。これらのおかしな舞台装置に時には鏡やガラス張りの床などが加わって、観客の位置感覚を狂わせる。 

野獣の青春
野獣の青春
刺青一代
刺青一代

狂うと言えば、彼の作品にあっては必ず狂い咲きする桜も、時間的な流れを無化するものとして到底忘れるわけにはいかない。 

そして、こういった要素をより大きなズレへと増幅させる作用をしているのが、あの上手いんだか下手なんだかさっぱり分からないカットの繋ぎである。だいたい、あの『悲愁物語』(1977)の中で唐突に挿入される桜のシーンは、いったい前後のシーンとどう繋がっているのか。あの少女はいったい何者で、どこから少年の家を覗いているのか。こういった疑問はいったん湧いてくるとどこまでもキリがないので、ここではあえて列挙しまい。

悲愁物語
悲愁物語

さて、それでは以上に記したような清順作品の特徴は、結局のところ、我々観客の心にどう迫ってくるのか。それを一言で言うなら、清順の映画は居心地が悪い、ということだろう。彼の作品に投げかける我々の視線は、ズラされ、遮断され、時間や位置感覚は狂わされる。作品の裏に何らかの意味を探り出すことは禁じられ、その上、何とか作品にノルべく、心情を映画の登場人物に託そうとしてみたところで、画面上には何も考えてなさそうな妙に薄っぺらい人物が写されているだけだ。こうして観客は映画へと寄り添うすべを失い、はなはだ居心地の悪い思いに駆られることになる(なお、居心地が悪いのはなにも観客だけのことではない。彼の映画の登場人物たちも皆、自らの定位置を見失い、「ここはどこ?」という疑問を呟きながらどこまでも彷徨し続ける)。

陽炎座
陽炎座

そして、ここに至って我々は、普段いかに安全で無難な映画世界に安住しているかを知ることになるのである。それがハッピーエンドであれアンハッピーエンドであれ、計算されたラストの一点に向けて物語的要素がどこまでも過不足なく配分された映画、あるいは、映画が本来的に持つ虚構性に無自覚なまま、物事の「らしさ」を取り繕うことに懸命になったり、観客の感情移入を誘っていやらしく媚態を振りまく作品などが、この世には多すぎる。鈴木清順は、一見ちゃらんぽらんな映画を作っているようでいて、その実、今述べたような風潮に「否!」の一語を鋭く突きつける、言葉の真の意味での過激で真摯な教育者と言うべきだろう。そして、自らは絶えずその所在をズラして、映画史というパースペクティヴの中に位置づけられることを拒みつつ、清順は、安全で怠惰な姿勢にあやうく陥りかねない我々の映画的感性を不断に脅かし、挑発し続ける。


[2017.2.22 旧ブログ「In A Lonely Place」にアップ。初出:『朝までビデオ2 邦画の夢』(洋泉社 1990)を若干修正した]