●追悼 森﨑東

2020年07月21日

生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ... 。

日本映画界きっての異才監督のひとり、森﨑東が、この7月16日亡くなった。享年92。先日のエンニオ・モリコーネに続いて、筆者の長年敬愛する大切な映画人がまたしてもこの世を去ってしまい、なんとも残念でならない。

とはいえ、41歳の時、『喜劇 女は度胸』(1969)で遅咲きの映画監督デビューを果たして以来、森﨑監督が、困難で長い映画人生の道のりを不撓不屈の意志で歩み続け(あふれる情熱、みなぎる若さ、協同一致団結、ファイトーッ!)、ついに遺作となってしまった『ペコロスの母に会いに行く』(2013)に至るまで、数々の忘れ難い、型破りな傑作、問題作を、我々映画ファンに残してくれた末に、天寿を全うしてあの世へ旅立ったのは、やはり喜ばしいこと。前者は無論のことだが、後者の意義もきわめて大きいはずで、(本来、追悼の場で述べるには不謹慎で相応しくないと受け止められるおそれがあるものの)そのことを筆者は、森﨑東党の熱血党員のひとりとして、心から祝福したいと思う。

冒頭に掲げた一節を含む映画『生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』(1985)といえば、自他共に認める森﨑監督の代表作の1本だが、この何ともユニークで印象的なタイトルを命名するに至った経緯に関しては、同作の劇場公開に先立って1984年に刊行された書物「にっぽんの喜劇えいがPART 2 森崎東篇」(映画書房)の中で、当の本人が「紅花落水 ―― あとがきにかえて――」と題した短文をしたためている。

ここにその前半を紹介すると

  • 映画『生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ党』を見る人は、まず第一カットのドタマで中学生の学ランの背中に朱書された「紅花落水」なる四文字を見る。この四文字は撮影台本の表紙にも朱書されていて覚えているスタッフも多いだろう。中国文化大革命華々しきころ、ふと目にとまった新聞記事の一隅に「生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ党という紅衛兵のグループが上海で旗揚げ」という三行を読んで以来、この長ったらしい党名のほんとうの中国名は何なのか、その疑問は以後十数年、私の頭の中で消えることなく、と言うより文化大革命の終結後はなぜかますます育ちつづけ、ついにはその名を冠した映画を作ろうと夢想するに至るまで肥大してしまったのだが、なぜそれほどまでにこのウサンクサイと言えば極めてウサンクサイ党名が私の、これまたウサンクサイ脳中にひっかかって十数年も生きつづけたか一切不明であると同様に、「生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ」なる諺だかスローガンだかが中国語でなんと表記されるかもまた今に至るまで一切不明である。何とか調べたくて文化革命の最中二度も中国へ行ったことのある親友の中国史研究家Kに尋ねると、たぶんこんなところじゃないかと書き送ってきたのが前述の「紅花落水」の四文字である。

とある。そして、それに引き続いて森﨑監督は、こう書き記している。

  • その手紙のあと二年を経ずして、Kは私に「タノムカラ来い ナゼ来ナインダ!? モリサキ オ前ハ嘘ツキダ」という電話口の向こうの悲痛な絶叫と、「北一輝・宮崎滔天」なる著書をのこして、映画クランク・インの数日目に自死した。そのしらせを美浜ロケの初日の夜受けた衝撃について、その衝撃がどう作品に影響したか、そして数ヶ月を経た今、それがどう変わったか、等々について私は未だに明白に語れないし、おそらく今後も同様であろう。

ここに書き記されている出来事は、森﨑監督のみならず、これを読む誰しもを思わず呆然とさせずにはおかない、衝撃的なものと言えるだろう。そして、それと同時に、森﨑映画ファンならば、森﨑監督が以前にもやはりこれと同様の、いやそれ以上に決定的に重大な、身近な存在の自死という衝撃的出来事を経験していることに、ただちに思いを馳せるに違いない。

既に周知の通り、森﨑監督の3歳年上の兄で、海軍航空隊に入隊して少尉候補生の秀才であった森﨑湊は、日本が敗戦を迎えた翌日の1945年8月16日、割腹自殺を遂げて21歳でこの世を去り、当時まだ十代後半の学生だった森﨑東に、何とも測り難い大きな衝撃を与えた。このことは監督自身、インタビューの場で幾度となく語っているし、亡き兄の書き残した日記や遺書をもとにした異色の映画『黒木太郎の愛と冒険』(1975)を、彼にとっては初めての試みとなる、独立プロとATGの共同製作による入魂の自主企画として生み出してもいる。しかし、この一作のみに留まらず、森﨑監督の長くて粘り強い映画人生は、自決によって若くしてあの世へ旅立った兄の死に対して、この世に取り残された自分は、果たしてどう向き合うべきか、という一点をめぐって築かれてきた、と言えるだろう。

先にも名を挙げた彼の監督デビュー作『喜劇 女は度胸』や、その姉妹篇の『喜劇 男は愛嬌』(1970)では、キャラ設定がまるで正反対で外見も性格もおよそ似ても似つかぬ兄弟が、松竹映画のお家芸というべき伝統的主題たるホームドラマの土台や枠組みを文字通り揺るがし突き破るほどの勢いで、凄まじい対立・葛藤劇や抱腹絶倒のとんだ珍騒動を繰り広げる。

喜劇 女は度胸
喜劇 女は度胸

兄弟の対立・葛藤劇というあからさまな主題は、その後森﨑映画から姿を消し、代わって、血縁による繫がりを持たない老若男女が緩やかな共同生活を営む様子をユーモラスかつエネルギッシュに描く、森﨑監督ならではの擬似家族的な群像劇が連作されることになるが、『喜劇 女』シリーズの第1作となる『喜劇 女は男のふるさとヨ』(1971)の中において、死の瀬戸際にある人物に対し、別の人物が自らの体をなげうってそれを救おうとするさまを描いた、要注目の重要な一挿話が登場する。普段から泣きべそ顔の、素っ頓狂で滑稽極まりない踊り子に扮した緑魔子が、受験に失敗した浪人生の自殺を思い留まらせるべく、彼と青姦をして警察にしょっ引かれる、というのがそれ。

緑魔子はその後、『生まれかわった為五郎』(1972)においても、こちらは自殺ではなく、ヤクザたちとの乱闘騒ぎの末、簀巻きにされて海の中に放り込まれ、半ば死体同然となって浜辺に打ち上げられた、ハナ肇扮する主人公の為五郎を何とか生き返らせるべく、自らも真っ裸となり、一升瓶をグビグビ呷って酒で全身を火照らせながら、すっかり冷え切って微動だにしない為五郎の体とひしと抱き合い、かくしてお陀仏寸前だった為五郎は、無事息を吹き返す。題名にもある通り、為五郎は生まれかわるのだ。

死んだはずの人間が生き返るといえば、『生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』の中で、葬式をして墓に埋められたはずの泉谷しげるが、地中からいきなり生きた姿で這い上がってくる場面も忘れ難い。そういえば、『喜劇 特出しヒモ天国』(1975)では、ストリップ小屋が墓場と隣接していて、森﨑映画ではたえず、生と死が背中合わせとなって通底している。

そしてまた、『生まれかわった為五郎』の先述の場面の直前には、緑魔子が、浜辺の近くにある墓場の土を掘り返しながら、その地中深くに埋められているという拳銃の数奇な来歴と自らの出生の秘密を、財津一郎相手に彼女独特の訥々とした口調で物語るという、これまた何とも摩訶不思議な魅力で観る者を圧倒する名場面がある。

その彼女の話によれば、かつて戦時中、このあたりには特攻隊の基地があり、日本が戦争に負けた時、ひとりの若い将校が敵の軍艦に体当たりすべく単身で出撃し、その頃芸者だった彼女の母親が、その将校から形見として拳銃を譲り受けた。その後、彼女の母親がその拳銃を使って自殺騒ぎを起こした際、父親が拳銃を地中深くに埋めたが、実は緑魔子の本当の父親は彼ではなく、特攻隊員であった将校である、というのだ。

この話を聞くと、先に紹介した森﨑監督の兄・湊の敗戦時の自決の話を、誰もが否応なく想起することだろう。そして、森﨑監督はその後、これと相似た数奇な戦中・戦後秘話を、改めて自ら反復・変奏して、異色のTVドラマ「田舎刑事 まぼろしの特攻隊」(1979)を作り上げている。

この作品では、特攻隊員の生き残りと称する男が、自らの戦時中の体験をもとに、出撃前夜、この世の最後のお別れにと、特攻隊員が彼に我が身を捧げる女子学生と、満開の桜の下で一夜の契りを交わすさまを描いた特異なブルーフィルムばかりを戦後もひたすら撮り続けるという、何とも異様で奇っ怪な内容のサスペンスドラマ。題名にもある田舎刑事の主人公を渥美清が演じてはいるものの、物語の実質的な主役は、上記の何とも怪しげで得体の知れない男を怪演する西村晃が担っていると言っていいだろう。

TVドラマの一篇とはいえ、全篇まさに森﨑監督ならではの、こってり濃厚な主題がぎゅうぎゅうに詰まった恐るべき傑作で、筆者は2013年、当時出来立ての新作森﨑映画(そして結局これが彼の遺作となった)『ペコロスの母に会いに行く』の劇場公開と、藤井仁子氏編の書物「森﨑東党宣言!」の刊行を記念して、オーディトリウム渋谷で催された森﨑東の特集上映会で初めてこの作品を目にし、その異様な熱気と迫力にただもう圧倒されるばかりだった。その日、上映に引き続いて行われたトークショーでも、山根貞男、上野昻志、藤井仁子の3氏が、やはり熱に浮かされたように上気した表情で、この作品について熱く語り合っていた様子が記憶に残っている。

「森﨑東党宣言!」の中では、高橋洋氏が、2004年、こちらは当時、『ニワトリはハダシだ』(2004)の公開記念としてシアター・イメージフォーラムで開催された森﨑東のレトロスペクティヴの際に、やはり一度きり上映されたこの「田舎刑事 まぼろしの特攻隊」を見て衝撃を受け、この作品を中心に森﨑映画の「涙」と「観念性」について幅広く論じているので、ぜひそちらも併せて参照して頂きたいが、なかなか見る機会のないこのレアな逸品は、森﨑監督の作品世界を語る上で不可欠のきわめて重要な作品であるに相違ないので、ぜひどこかでまた放映・上映、ないしは、ソフト化してくれないものだろうか。

......さて、本来なら、これまで言及していないほかの多くの作品も引き合いに出しながら、森﨑映画の到底一筋縄ではいかない不可思議な魅力や謎について、もっとぐっと深く掘り下げて論じなければいけないところだが、そうするとまた、ますます長くなってキリがなくなるし、筆者の余力もそろそろ尽きてきた。ここでは、筆者の手元に切り抜いて取っておいた、2010年9月28日の朝日新聞の夕刊に掲載された森﨑監督への取材記事を最後に紹介して、今回の個人的な追悼記事をいちおう締め括ることにしたい。

「兄の自決が残した問い」と題されたその記事の中でも、森﨑監督はなお、「兄の死の意味を新たにシナリオの形で書き留めておきたい。そんな気持ちもあります。[...中略...]そのシナリオは、5、6年前から書き進めています。」と意欲を見せ、その一部の場面を自らの言葉で語っている。それを映画化する望みは、残念ながらついに果たされずに終わってしまったが、森﨑東監督の死を受けて、森﨑映画が観る者に突きつけるさまざまな問いに、我々もこの先、じっくりと時間をかけて答を出していく必要があるだろう。