●追悼 ジョナス・メカス

2019年01月29日

既に皆も御存知の通り、この1月23日、実験映画や前衛映画という狭い枠のみに留まらず、現代映画界きってのユニークな偉才にして詩人のジョナス・メカスがこの世を去り、世界中の映画ファンからその死を悼む声が数多く寄せられている。

かくいう筆者も、学生時代、当時はまだ四谷三丁目にあったイメージフォーラムで定番のプログラムとしてよく上映されていた『リトアニアへの旅の追憶』(1972)や『ロスト・ロスト・ロスト』(1976)を最初に観て、その親密でパーソナルな彼独自の映画世界にすっかり魅了されて以来、ずっと長年にわたるメカスの大ファン。以後、1991年、そして1996年と、メカス本人の来日に合わせて催された貴重な記念イベントをはじめ、彼の新作・旧作を紹介する特集上映会、彼の映画作品から抜き出したフィルムのコマを印画紙に新たに焼いて発表した「静止した映画フィルム」の写真展覧会などにもせっせと足を運び、さらには、詩集や日記などの著作も刊行されるたびに購読して、彼の多彩な活動の足取りを熱心に追いかけたものだった(そういえば、作品の長さが約6時間にも及ぶビデオ日記『セバスチャンの教育、あるいはエジプトへの回帰』(1992)のマラソン上映会も、気合を入れて観に行ったものの、さすがに途中でどっと疲れが押し寄せたことを、今になってふと思い出した。Oh, I was there...)。

スペインの俊英ホセ・ルイス・ゲリンと共作した『メカス×ゲリン 往復書簡』(2011)や、YouTubeにアップされた映像などで近年目にするメカスの姿は、いかにも飄々としてにこやかな笑顔を浮かべた好々爺そのもので、まるで仙人かあのヨーダにも似た神々しさすら漂わせていただけに、あるいはひょっとすると、彼はこのまま永遠に生き続けるのではとも思われたが、さすがにそうはいかなかったようで、なんとも残念。享年96。合掌。

とはいえ、詩人、映画作家であると同時に、メカスは、1950年代の半ばから、映画の組織的な上映・配給活動や、映画雑誌の創刊・発行、映画評・インタビュー記事の精力的な執筆などを通して(さらにはその後、独自のシネマテークやフィルム・アーカイヴスを設立して、フィルムの収集・保存活動などにも積極的に乗り出す)、当時のアメリカ映画界のアンダーグラウンド・シーンに勃興しつつあった、ジョン・カサヴェテス、シャーリー・クラーク、スタン・ブラッケージ、ジャック・スミス、アンディ・ウォーホル、等々による、従来のハリウッド映画とは一線を画す、非商業的なインディペンデント映画や実験映画、前衛映画の運動を熱烈に擁護し、それらの新しい映画の波にそっぽを向く世間や同業者たちを相手に戦闘的な論陣を張る、強力な主導者、オルガナイザーとして八面六臂の活躍を見せていた。

そうした彼のラディカルな革命的闘士ぶりを何より端的に物語る恰好の一例が、メカスがNY発行の人気週刊紙「ヴィレッジ・ヴォイス」に連載していた映画コラムを取りまとめた名著「メカスの映画日記 ニュー・アメリカン・シネマの起源1959~1971」の中から抜き出した、何とも不敵で人を食ったブラック・ユーモアに満ち溢れた以下の痛快な文章だろう。

  • 1963年3月28日
  • 商業映画を改良する六つの方法
  • 第一のメモ。

  • (1)〈虐殺〉という題の映画の製作を発表する。
  • (2)ロケ地を選ぶ(ブロンクスか、もっとよいのは、プーキプシーのような郊外地にある大きな空き倉庫)。
  • (3)"批評家団体旅行"を組織して全映画批評家を招待し、撮影に立ち会わせる。
  • (4)全映画批評家をセットに並ばせる。
  • (5)マシンガンで批評家どもを撃つ。
  • (6)撮影の完了を発表する。

  • [...中略...]

  • 第六のメモ。

  • (1)製作費1500万ドルの〈ハリウッドの破壊〉(あるいは〈ハリウッドの炎〉)の製作を発表する。
  • (2)いちばん大きなハリウッドのスタジオを借り切る。
  • (3)ハリウッドで手に入れることのできるすべての映画機材を借りきり、スタジオに運びこむ。
  • (4)スタジオを爆破する。
  • (5)〈ハリウッドの破壊〉の完成を発表する。

  •                 「メカスの映画日記」P82-3(飯村昭子訳)

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実際、ここで改めて彼の経歴をざっと駆け足で振り返ってみると、その前半生はまさに波瀾万丈で、苦難苦闘の連続といえるものだった。

1922年、バルト海に面した小国リトアニアに生まれたジョナス・メカスは、早熟な文学青年に育つも、第2次世界大戦勃発後、母国がソ連、次いでナチス・ドイツに侵攻・占領され、反ソ・反ナチの地下出版の活動に携わった彼は、「Go West」という叔父の勧めに従って、3歳年下の弟アドルファス・メカスと共に国外へと脱出し、ウィーンを目指したものの、結局ドイツの強制労働収容所へ送られる運命に。そこを何とか無事脱走したメカス兄弟だが、戦後、リトアニアは再びソ連に編入されてその属国の一つとなり、帰るべき国・故郷を失った彼らは、今度はドイツの難民収容所を転々とした末、1949年、新天地を求めて船で大西洋を渡り、ついにアメリカのNYへと到着。その翌週、知人たちから借り集めた金でボレックスの16ミリ・キャメラを買ったメカスは、自分たち兄弟や友人たちの日常生活の断片や、季節ごとに移り変わるNYの街の風景などをキャメラで観察・記録するようになる。そして、そうして撮り溜めた映像素材が、やがて長い歳月を経て一つにまとめられて、「日記、ノート、スケッチ」という副題を持つ約3時間の長編『ウォールデン』(1969)を皮切りに、彼独自の「日記映画」という新たな映画スタイルを生み出し、その後の個人映画や私的ドキュメンタリー映画隆盛への道を切り拓くことになるのは、既によく知られている通りだ。

その苦難に満ちたメカスの青年時代は、「I Had Nowhere to Go」(どこにも行く場所がなかった)という原題を持つ痛切この上ない自伝的著作「メカスの難民日記」や、『ウォールデン』と同様の「日記映画」スタイルで作られ、1964年から68年にかけて撮られた映像素材を用いた同作よりも時代を前に遡り、1949年から63年にかけて撮られた映像素材を用いて構成された、これまた3時間近い長編大作『ロスト・ロスト・ロスト』などでより詳細に知ることができる。

『ロスト・ロスト・ロスト』は冒頭、アメリカに到着して早々にキャメラを買ったメカスが、自分たち兄弟の姿を撮った最初の映像に被せて、あの彼独特の訥々とした声で語りかける以下の言葉から始まる。

  • おお、歌え、ユリシーズよ。歌え、あなたの放浪を。どこへ行ってきたのか、なにを見たのか、語ってくれ。そして我家を去りたいとは夢にも思わなかった男、顔見知りの人びとにかこまれて、故郷のことばでしゃべっていた男の話を聞かせてくれ。歌え、彼がいかにこの世界に放り出されていたのかを。   

  •   「ジョナス・メカス ― ノート、対話、映画」P231  

  •   『ロスト・ロスト・ロスト』コメンタリー (採録・訳:飯村昭子)

そして、映画の前半では、自分たちと同じようにしてアメリカに流れ着いた同胞の亡命リトアニア人たちが一種の運命共同体を結成し、定期的に集まってはピクニックを楽しんだり、会合を開いたりする様子が、メカスのキャメラを通していきいきと映し出される。けれども、リトアニアが依然ソ連の支配下にある厳しい現実は変わらないまま空しく歳月が流れ、祖国へ戻る夢と希望が日に日に遠のき、焦燥と苦悩を募らせる彼らの憂いに満ちた表情と姿も、メカスの内省的なナレーションの声と共にフィルムにしっかり刻み込まれることになるのだ。

根無し草のまま宙吊りになったこうした絶望的状況に次第に耐え難さを覚えるようになったメカスは、やがて同胞たちの集団に別れを告げて新たな道を歩み出し、作品の後半は、NYの街頭でデモをする人々や、映画の世界で出会った友人たちへとキャメラを向ける被写体の対象をシフトさせながら、新天地アメリカでなんとか根を下ろし、独自の生活を築こうと懸命にもがく、彼個人の私的ドキュメントへと様相を大きく変えていく。そして"失った、道に迷った、途方に暮れた"等々を意味する「ロスト」という語句を、畳みかけるように悲嘆調で題名に3つ並べたこの『ロスト・ロスト・ロスト』[原題:Lost Lost Lost]は、しかし最後、とある海辺を訪れたメカスが、ふと過去の記憶を蘇らせてある種の啓示を得、希望の光を見出すところで幕を閉じることになる。

その後、メカスは、1971年の夏、長らく夢見てきた母国リトアニアの生家への帰郷をついに実現化させて、年老いた母親をはじめ、家族や親戚たちと27年ぶりの再会を果たす。そして、その感動的な光景をメカスが例によって自らの手持ちキャメラで撮影したものが、あのひたすら美しい珠玉の映画『リトアニアへの旅の追憶』(1972)となって生み落とされるわけだが、メカスの芸術家としての歩みと創作活動は、これで無事めでたくハッピーエンドを迎えて終止符を打ったわけではなかった。

ここで改めて振り返ってみればすぐに気づくように、『ロスト・ロスト・ロスト』は、映像素材自体が撮られたのは先にも書いた通り、1949年から63年にかけてのことだが、それをメカスが一つの完成作品にまとめあげて発表するのは、『リトアニアへの旅の追憶』よりも後の1976年のこと。そしてこれまた先に紹介した著作「メカスの難民日記」も、第2次世界大戦中から戦後にかけてメカスが書き綴った当時の日記を、本人自ら抜粋や編集を施した上で1991年に刊行したもの。

メカスは、『ロスト・ロスト・ロスト』の後もさらに、まだ幼い愛娘のウーナや妻を伴って1977年にリトアニアの生家を再訪した際に撮影した映像素材などをもとに、『いまだ失われざる楽園、あるいはウーナ3歳の年』[原題:Paradise Not Yet Lost, or Oona's Third Year]を1979年に発表したほか、短編と長編を織り交ぜ、やがては撮影機材をフィルムからビデオ・キャメラに持ち替えながら、数多くの映像作品を発表し続ける。

『いまだ失われざる楽園、あるいはウーナ3歳の年』は、メカスお馴染みの「日記映画」であると同時に、今後成長する娘の未来に宛てた一種の「手紙」=「映像書簡」ともいえ、1992年、妻と娘に加えて、当時まだ小学生の息子セバスチャンを連れてメカスがエジプトへ家族旅行をした際の様子を記録した、先述の長編ビデオ日記『セバスチャンの教育、あるいはエジプトへの回帰』も、やはり息子に宛てた一種のビデオレター。そして、これまた最初の方に紹介した『メカス×ゲリン 往復書簡』(2011)も、その名の通り、メカスが、『シルビアのいる街で』(2007)で知られるスペインの俊英ホセ・ルイス・ゲリンと、各自デジタルビデオで撮った短編映像を交互にやり取りした「ビデオ往復書簡」。

さらには、1994年から翌95年にかけて、メカスがソ連からの独立回復を果たした後の母国リトアニアの農民新聞に一連の書簡形式で書き送り、日本では2005年に翻訳出版されたエッセイ集は、「どこにもないところからの手紙」と題されることになる(メカスが書いたのは母国語のリトアニア語だが、その英語訳にあたる題名は「Letters from Nowhere」)。その本の序文として、メカスは以下のように書き記している。

  •  私はよく旅をする。それで人々から「ご出身はどちらですか」といつも尋ねられる。そこで私はこう答える。「私はリトアニアに生まれ、そこで育ちました。今はニューヨークに暮らしています。でも、私の国は今では文化です」
  •  彼らは私を見て、目をパチクリさせ、「ご冗談を」と言う。
  •  しかし、私はとてもまじめに話している。今、私に興味があるのはひたすら文化だ。ところが、文化は、どこにも存在し、どこにもないところに存在する。
  • そこで、これから書く私の手紙をこう呼ぶことに決めた。「どこにもないところからの手紙」 

  •    「どこにもないところからの手紙」 P19(村田郁夫訳)

上記のメカスの文章の中に登場する「どこにもないところ」(Nowhere)は、「メカスの難民日記」の原題である「I Had Nowhere to Go」とも明らかに呼応していて、一見分かるような、分からないような、なかなか解釈するのが難しいクセモノのキーワードといえるが、同書のあとがきで訳者が述べている通り、おそらくはトマス・モアの同名の古典に登場する架空の理想郷、どこにもない場所を意味する「ユートピア」(utopia)と相通じ、メカスの映画の中核をなしている「Paradise」(パラダイス・楽園-幸福の瞬間)とも深く関連しているに違いない。

メカスは、既に『ロスト・ロスト・ロスト』のラストの直前に、自らのナレーションで以下の言葉をつぶやいていた。

  • ときどき、彼は自分のいる場所がわからなかった。現在と過去がまじり合い、重なり合った。やがて、どこも本当に自分の場所ではなく、どこも自分の故郷ではないので、どこであろうと即座に、そこの人間になる習慣が身についた。彼はよく冗談にこう言った。おれを砂漠に放り出して、次の週に来てごらん。おれはそこに根を

    下ろしているだろうよ。


  •    「ジョナス・メカス ― ノート、対話、映画」P238

上記の言葉は、やはりメカスの日記映画の一本、『時を数えて、砂漠に立つ』(1985)の題名の自註ともいえるものだろう。そしてまた、「メカスの難民日記」のラストの直前にも、それとよく似た次のような文章が登場する。

  • 「ときどき、自分が犬のような気がします。一日以上そこにいると、そこがどんなところだろうと好きになってくるのです。たまたま辿り着いたどんな小さな町でも、通りでも、好きになってくるのです。私のすべての記憶に取って代わりうるような特定の場所は、どこにもありません。今、私の記憶は、たくさんの場所から、これまでの人生でたまたま立ち寄ったすべての場所から、生まれてくるのです。それにもう、自分の本当の生地もわからないのです。私はこうした場所や国を等しく裏切ってきたのかもしれません。しかし私は、旅をしたいと思ったことなどありませんでした。いつも旅が嫌いでした。ここは私の国、だからここにいる...。と言っている人たち、そんな人たちより私のほうが、はるかに安定しています。彼らはどんな場所も気に入らないのです。でも私は、どんな場所からも、記憶に傷をとどめずに立ち去ることができません。

  •    「メカスの難民日記」 P389             

おそらくメカスは、不意に故国から追い立てられ、難民のひとりとして流浪の日々を送るはめとなった過酷な体験を必死でくぐり抜けてきた末に、ある種、人生を達観したこのような境地に辿り着いたに違いない。かくして、母国リトアニアでの無垢なる幼年時代の記憶が、メカスにとって最も特権的な記憶の一つであることは間違いないにせよ、それ以外に彼が人生のあらゆる段階において過ごしたさまざまな場所や、出会った人々、偶然立ち会った出来事の記憶の一つ一つも、メカスという稀有な一人の人間による文化・芸術への昇華作用を経て、それぞれが大切でかけがえのない慈しむべきものとして輝きを放つことになる。そしてこの時、Nowhereは、「どこにもないところ」から、一瞬ごとにたえず更新される現在、Now, Here「今、ここ」へと転位を遂げるのだ。それは決して手の届かない遠いあの世、彼岸にある「ユートピア=楽園」ではなく、あくまで我々一人一人の心の内にある。

  • 遅い夜、私は座って、現在あるいは未来、何が本当に重要なのか、考える。ああ、重要なのは、ただ楽園のかけら、それら小さな断片だ。そして、楽園のかけらを守り、維持し、それらが育ち、花開くように、養い育めるのは、私たちだけである。すべては私たちの在り方に係わっている。いや、楽園はいまだ失われず、私たちの心の中に宿っている。

  •     「どこにもないところからの手紙」 P158                

あるいはまた、2000年に発表された4時間半以上に及ぶ長編日記映画『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』の中で、メカスが語る以下の言葉。

  • そうとは知らずに、知らないままに、わたしたちは、それぞれに、どこか深いところに、楽園のイメージを抱いている。イメージとも呼べないような、そこへなら行ったことがあるというぼんやりとした感覚、そこにいた覚えはたしかにあると思うような場所、これこそ楽園に違いない、楽園とはきっとこんなところと思えるところ、楽園の小さなかけらかもしれない。場所に限らず、わたしは友といるとき、一緒にいるとき、幾度となく、わたしたちは一体感を、なにか特別な感覚を覚え、気分が高揚して、これこそ楽園だと感じた。(笑い)......しかしわたしたちはこの、この地球の上にいる。でも、わたしたちは楽園にいたのだ......そうした一時、ほんの一瞬が、たぶんすべてなのだろう。(笑い)......永遠なんてどうでもいい、そんなことは忘れて楽しみたまえ、そう、わたしたちはその一時、一瞬、そうした宵を楽しく過ごした。それに、そうした宵はたくさんあった、たくさんあったではないか友よ、わたしは決して忘れない、友よ.....  

  •   「ジョナス・メカス ― ノート、対話、映画」 P282-3

  •   『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』コメンタリー(採録・訳:木下哲夫)

時空を超えてさまざまな場所を自在にさまよい、あるいは友と楽しいひとときを過ごし、この世にいながらにして楽園気分を満喫する。どこか吉田健一の名編「金沢」や「酒宴」をつい彷彿とさせる、融通無碍で至福の境地ではある。そういえばメカスは、たえず「カメラを持った男」であると同時に、その手に酒入りのグラスを掲げ持つ姿も、ひと頃からよく目にするようになった気がする。

やはりメカスも、まぎれもなく桃源郷に遊ぶ酒仙の一人であったのであり、そんな彼にとって、この世からあの世への旅立ちは、あるいは、ほんの小さな一歩だったのかもしれない(長年のファンの一人としては、そう思いたい)。今後もまた、メカスの映画をあれこれ見直しつつ、筆者も自分の実人生において、自分なりの楽園の小さなかけらを大切に養い育てるよう、心がけていきたいものである。