●追悼 ジョナサン・デミ (蔵出し原稿)

2019年01月20日

映画ファンにはもはや旧聞に属する話だろうが、映画監督のジョナサン・デミが、先月の4月26日、惜しくもこの世を去った。享年73。

彼は、筆者の長年のお気に入りの映画作家のひとりだったので、本来なら、ただちに追悼文を書かなければと思いつつも、毎年のことながら、ゴールデン・ウィーク中は、世間の休日気分をよそに、レギュラーの仕事で追われてろくに遊ぶことができず、それがようやく一段落ついた後は、その反動でしばらく休養&脱力モードにどっぷり浸って、なかなかブログ原稿に取りかかる気力が湧かずにグズグズするうち、すっかり時間が経ってしまった。

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実は筆者は、もう随分昔の1990年、さる映画のムック本に、デミについての小論を書いたことがある。当時はまだ、彼の初期作品は残念ながらほとんど見ておらず、日本では劇場未公開のままビデオ・リリースという形で紹介されたその時点でのデミの最新作『愛されちゃって、マフィア』(1988)をはじめ、『サムシング・ワイルド』(1986)、『ストップ・メイキング・センス』(1984)、そして、元はTVムービーで日本ではこれまたビデオで紹介された『クリストファー・ウォーケンのアクターズ・ラブ』(1982)という1980年代に撮られた4本を中心に、デミ作品のある種の特徴的スタイルと思われるものをざっと論じてみたもの。今回そのことをふと思い出し、久々にその拙文を引っ張り出して自分でも読み返してみたのだが、いかにも若書きの恣意的で底の浅い文章で、これをそのまま蔵出しして当ブログに再掲する気にはなれず、かといって、デミの多彩な作品世界のユニークな魅力をまた改めてイチから振り返って総括するというのも、なかなか難儀で骨の折れる仕事で、さて一体どうしたものか...、とあれこれ考えあぐねていたせいもある。

デミの名前が日本でも広く知られるようになったのは、彼がその後発表した2本のハリウッド・メジャー大作 ― トマス・ハリスの同名ベストセラー小説を映画化して世界的に大ヒットしたのみならず、アカデミー賞においても作品、監督、主演男優(アンソニー・ホプキンス)、主演女優(ジョディ・フォスター)、脚色賞と主要5部門を制覇したサイコ・スリラーの傑作『羊たちの沈黙』(1990)、そして、ハリウッドがエイズ問題に正面から取り組んだ社会派ドラマで、これまたアカデミー賞で主演男優賞(トム・ハンクス)と主題歌賞(ブルース・スプリングスティーン)の2部門に輝いた『フィラデルフィア』(1993) ― であることは、まず間違いないだろう。

ただ、この2本の成功で栄光の頂点に上り詰めたものの、ハリウッドのメインストリームでのデミの活躍は、残念ながら長くは続かず、トニ・モリソンの小説を映画化した約3時間にも及ぶ意欲的な長編大作『愛されし者』(1998)や、『シャレード』(2002)、『クライシス・オブ・アメリカ』(2004)という2本の映画リメイクの試みが興行的には不成功に終わって、彼のその後の歩みは紆余曲折を辿ることになる。そして、商業的な劇映画の世界よりもむしろ、ドキュメンタリーや音楽ライヴもの、あるいはTVドラマの演出などにデミが活動の重心を移したこともあって、日本のファンには彼の足取りを継続的にフォローするのがきわめて困難になってしまったことも、否めない事実だろう。上記の3本の劇映画に関しては、筆者もしっかり見ているし、その後に彼が発表した『ニール・ヤング/ハート・オブ・ゴールド ~孤独の旅路~』(2006)や『レイチェルの結婚』(2008)、そして、惜しくも彼の最後の長編劇映画となった『幸せをつかむ歌』(2015)は、やはり素晴らしいと大いに感銘を受けたのだが、デミのドキュメンタリー作品や近年のTVドラマなどは、ほとんど未見のままとなっている。

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ただ、今日、改めてデミ監督のそれなりに長くて起伏に富んだキャリアを振り返ってみると、1970年代に、あのB級娯楽映画の帝王ロジャー・コーマンの下で映画修業を積み、『女刑務所・白昼の暴動』(1974)、『クレイジー・ママ』(1975)、『怒りの山河』(1976)と、一連の早撮り、低予算のエクスプロイテーション映画から出発したデミ監督が、出世作となった珠玉のオフビート・コメディ『メルビンとハワード』(1980)でそのユーモラスでエキセントリックな個性と才能を存分に開花させて、アカデミー助演女優賞(メアリー・スティーンバージェン)と脚本賞も受賞して一躍カルト的な人気と注目を集め、次代のアメリカ映画界を担うユニークな逸材として快進撃を続けていた1980年代の頃が、やはり最も光り輝いていて面白かった、という印象が強く、個人的にも一番愛着がある。

とりわけ、トーキング・ヘッズのリーダーでもあったデイヴィッド・バーン繋がり(出演や音楽担当、楽曲提供)でゆるやかに3部作を成す、『ストップ・メイキング・センス』、『サムシング・ワイルド』、『愛されちゃって、マフィア』が、筆者にとっては、デミ映画の個人的なトップ3となる(トーキング・ヘッズは、1980年代、最も好きな音楽バンドの1つで、バンド解散後の1992年にソロで来日したバーンのライヴは喜び勇んで駆け付けたし、トーキング・ヘッズのアルバム「リメイン・イン・ライト」や「ストップ・メイキング・センス」は、今なお大のお気に入りの愛聴盤で、それらの楽曲を耳にした途端、自然とこちらのスイッチが入って心と体が反応してしまう。デミの映画ではないが、『シークレット ウィンドウ』(2001 デイヴィッド・コープ)や『きっとここが帰る場所』(2011 パオロ・ソレンティーノ)を何の予備知識もなく見た時も、嬉しい驚きを覚えてついニヤリとさせられたものだった)。

この映画3部作の、多彩で、何でもあり(anything-goes)の構造は、バーンの音楽的気質と巧みに釣り合っている、とオンライン映画サイト「Sense of Cinema」の「Great Directors」でデミの項目を執筆している論者が脚注で書き記しているが、

https://urx3.nu/PrdZ

と同時に、このデミ映画ならではの重要で最大の魅力の一つが形作られるにあたっては、デミ自身が思春期に経験した家の引越と、それに伴う周囲の環境の劇的な変化が、きっと大きな役割を果たしているに違いない。デミが生まれ育ったのは、アメリカ、ニューヨークの都市圏にあるロングアイランドの閑静な郊外の高級住宅地区だったが、15歳の時に、彼の一家はアメリカ東南端フロリダ州の陽光降り注ぐ街マイアミへと移住する。

都市郊外であるロングアイランドのとても寂しい地区を抜け出して、フロリダの広大な空間へと移り住み、ビールを飲んでは車をかっ飛ばし、おかしなアクセントでしゃべりまくるガキたちと出会うというのは、その年頃の少年にとっては何とも刺激的な体験だったと、イギリスの映画雑誌「Projections」の第1号に掲載されたインタビュー記事「Demme on Demme(デミ、自らを語る)」[雑誌の発行年は1992年だが、記事そのものは、1989年に行われた2つのインタビューと、映画『羊たちの沈黙』の公開を機にBBC放送が1991年に行ったインタビューを合わせて再構成したもの]の冒頭で、デミ自身が語っている。

ロングアイランドといえば、『サムシング・ワイルド』でジェフ・ダニエルズ演じる当時の典型的なヤッピーの男性主人公が自宅を構えているのが、まさにこの場所。昇進を間近に控え、出世コースを順調に歩んでいた彼は、印象的な黒のボブヘアをし、ルルと名乗る、メラニー・グリフィス扮する風変わりなヒロインと運命的に出会い、その気まぐれな行動とペースにすっかり巻き込まれて、彼女と共に思いも寄らぬワイルドな旅へと出発するはめとなる。まるでハワード・ホークスかプレストン・スタージェスの映画世界を彷彿とさせる、狂騒的で愉快な現代版スクリューボール・コメディとして快調にスタートするこの『サムシング・ワイルド』は、やがて彼らの珍道中に、グリフィスの別れた夫たる危険で兇暴な前科者のレイ・リオッタが新たな仲間として加わることによって、悪夢的な様相をいっそう深め、フィルム・ノワール調のダークな世界へと急速に転調していく。しかし、ダニエルズは、それまでまるで知らなかった異世界との遭遇を通して、これまでの自らの空虚な人生とすっかり訣別し、新たに生まれ変わっていくことになるのだ。

(ちなみに、映画ファンなら既に御存知の通り、フランク・ヴェデキントの有名な戯曲を映画化したサイレント映画の名作『パンドラの箱』(1929 G・W・パプスト)で、伝説的ハリウッド女優ルイーズ・ブルックスが演じたヒロインの名がルル。ただし、『サムシング・ワイルド』の物語が進むにつれて、グリフィス扮するヒロインの本名は、実はオードリーと判明し、彼女もまた最後には、『ティファニーで朝食を』(1961 ブレイク・エドワーズ)のオードリー・ヘップバーン風のレディへと、さらなる変貌を遂げる。そして、デミはその後、これまたヘップバーン主演の有名人気作『シャレード』(1963 スタンリー・ドーネン)の現代版リメイクを手がけることになる)。

さらには、『サムシング・ワイルド』の姉妹編にして、こちらはシットコムとギャング映画を掛け合わせたような、より軽妙で諷刺コメディ的な色合いが濃い『愛されちゃって、マフィア』。ここでミシェル・ファイファーが演じるヒロインも、夫が属するマフィア社会の一員として、ロングアイランドの高級住宅地で一見何不自由ない生活を送っていたものの、夫が殺されたのをきっかけに、マフィアの世界とはきっぱり手を切るべく、これまで住み慣れたその地を離れてマンハッタンの安アパートに移り住んで、次第に下町での生活に溶け込みながら自由な解放感を味わうようになり、自らの新しい人生を発見していく。そして物語の舞台はさらにマイアミへと移り変わり、彼女に気のあるマフィアのボスや、その嫉妬深い妻、さらには、彼らの行動をひそかに監視する潜入捜査官らが入り乱れて、刺激と波乱に満ちた愉快な大団円を迎えることになる。

先に紹介したインタビュー記事「デミ、自らを語る」の中で、デミは当初、『愛されちゃって、マフィア』のことを、格別何か深いことを語るような気振りさえ見せない、純然たる現実逃避のファンタジーを作ることが面白いと思ったんだと、多分に韜晦気味に語っていて、それって、本気で言ってるの? と聞き手に改めて問い返されたところで、

  • そう聞かれたからには、僕も正直に答えなくちゃね。『愛されちゃって、マフィア』のさりげない社会的メッセージというのは、とりわけ人種の異なる人間同士、それに人間全般にとってもそうだけど、他の人々に向けて手を差し伸ばすこと、そして今度は交代に、手を差し伸べられることによって、きっと何かを得られることができる、というものだ。

と答えている。そして、デミはさらに言葉を継いで、ファイファー演じる白人のヒロインが、居心地が良くて設備も整った郊外の家を離れて、生きるのが一層困難な境遇へと分け入り、そこで、民族やその他の違いによってある種のアウトサイダー的な地位に追いやられている人々に取り囲まれながら、彼女自身もひとりの完全なアウトサイダーになること、そしてそうした状況下にあって、彼女が人種の分け隔てなく誰とでも接することが出来るということ自体がひとつの大きな財産となって、他人からも手を差し伸べられることが可能となり、かくして彼女は仕事にありついて、新たな自立への道をスタートすることが出来たんだ、ということを熱っぽく力説している。

人種や文化的背景、社会的身分などの違いを超え、それぞれ素の状態で向き合った生身の人間同士が、互いに手を差し伸べ、あるいは差し伸べられて助け合い支え合いながら、ともに困難な状況を乗り越えていくということ...。ここでの、デミ自身による『愛されちゃって、マフィア』の内容説明は、一見純然たる商業的娯楽作の中に込めた彼のひそかな意図やこだわりを教えてくれると同時に、彼のほかのさまざまな作品を太く貫く中心的主題をも、明確に解き明かしてくれると言えるだろう。

例えば、『フィラデルフィア』では、エイズを理由に会社を不当解雇された同性愛者の白人エリート弁護士トム・ハンクスの窮状を目の当たりにして、かつて彼と法廷で渡り合ったこともある黒人のたたき上げの弁護士デンゼル・ワシントンが、ハンクスと共に社会的な差別や偏見と闘うことを決意する。『羊たちの沈黙』では、正体不明の猟奇連続殺人犯を割り出すため、FBIの若き女性訓練生ジョディ・フォスターが、天才的な臨床精神科医であると同時に、彼自身、おぞましい連続殺人鬼として異常犯罪者用の特別病棟に厳戒態勢で監禁中のアンソニー・ホプキンスに助けを仰ぐことになる。

そして何よりここで、デミ映画らしい格好の作品例として筆者の頭に思い浮かぶのが、『メルビンとハワード』。ひと頃ニューシネマでよく流行ったバディ・フィルムよろしく、2人の人物名を題名に並記したこの映画で、主人公となるのは、片や、庶民の代表ともいうべき、底抜けにお人好しで楽天家の純朴な青年メルヴィン・デュマー(ポール・ルマット)。そして、他方のハワードとは、あの数々の神話的伝説に彩られた変わり者の大富豪、ハワード・ヒューズその人(ジェイスン・ロバーズ)。社会的地位や財産という点からすると、天と地ほどの隔たりがある2人だが、この映画の中で主役の座を大半占めるのは、もっぱらデュマーの方で、しかも彼は、ヒューズとあくまでひとりの人間同士、対等の立場で向き合う。

バイクの乱暴運転で事故を起こし、ラスヴェガスに近いひとけのない砂漠で危うく行き倒れになりかけていたひとりの老人を、その晩、たまたま近くを車で通りかかった青年デュマーが助け出すところから、この映画は始まる。どう見てもただのむさ苦しいホームレスにしか思えない老人は、車中の対話の中で、やがて自らの正体をハワード・ヒューズだと明かすが、デュマーはそれをただの冗談とみなして、信じようとはしない。そして、なおも自らの殻にこもって頑なな態度を崩そうとしない気難し屋のヒューズに、デュマーは、彼が作曲したクリスマスソングを一緒に歌うよう、気さくな態度で誘い、続いてヒューズが、自らの思い出の1曲たるスタンダード・ナンバー「バイ・バイ・ブラックバード」をはじめは独唱で訥々と歌い、やがてデュマーも合唱に加わることで、2人はようやく心を通じ合い、一夜限りの彼らの束の間の邂逅は忘れ難いものとなる。そしてそのことが、映画の終盤になって、デュマーののらりくらりとしたあまりパッとしない人生に、思いも寄らぬ僥倖と奇跡をもたらすことになる。

デミの映画にあってはたえず、互いに原理の異なる2つの世界が並立・併存し、主役・脇役の区別なくデミ映画に登場するいずれ劣らぬ魅力的で生き生きとしたキャラクターたちは、その両極の間をダイナミックに揺れ動きながら、時に苦悩と葛藤に満ち、あるいはまた、時には笑いとユーモアに包まれながら、涙ぐましい奮闘を繰り広げる。そしてこの時、常に音楽が2つのかけ離れた世界を結ぶ夢の懸け橋となって、両者の間の溝や距離を一挙に無化し、和解と融合を促す潤滑剤の役割を果たすことになるのだ。

先に『メルビンとハワード』での音楽の一例を紹介したが、ほかにも例えば、『サムシング・ワイルド』では、グリフィスとの刺激的なドライブを通じて次第に心解き放たれるようになったダニエルズが、やはり車の中で、この映画の主題曲というべきトロッグスの名曲「恋はワイルド・シング」を、道中で拾いあげたヒッチハイカーのよそ者たちと輪になって仲良く熱唱する印象的な一場面が登場する。

そして、『レイチェルの結婚』ではアン・ハサウェイ扮する情緒不安定な麻薬依存のリハビリ患者、『幸せをつかむ歌』ではメリル・ストリープ扮する、いい年をして今なお成功への夢を捨てきれない売れない女性ロックシンガーが、それぞれ自分の家族や周囲の連中と衝突や反目を散々繰り返しながらも、結婚式という晴れ舞台において、ここぞという絶妙のタイミングに必殺の音楽が流れると、たちまちその場の緊張した空気がほぐれ、それまで各自バラバラだった人々がみな一つに結束して、祝祭的なアンサンブルを奏でることになる。そして、それを見届けた我々観客も、高揚とした一体感を味わいながら、得も言われぬ感動と幸福を噛み締めることになるのだ。

娯楽映画作りの何よりの師匠であり、今なお現役プロデューサーとして元気に新作を発表し続けているロジャー・コーマンや、コーマン門下の幾多の先輩監督たちを差し置いて、今後のさらなる活躍を期待していたジョナサン・デミが、ひと足先にあの世へ突如旅立ってしまったのは、長年の一ファンとして何とも残念で心寂しい。ひょっとすると、今ごろ彼は、天国という名のバーにたどり着いて、バンドが演奏するお気に入りの曲をひと晩じゅうずっと聴きながら、早くも退屈を持て余しているのではないだろうか。

というわけで、最後はやはり、映画『ストップ・メイキング・センス』のトーキング・ヘッズの数ある名曲・名演奏の中から、このしみじみ美しくて味わい深い曲「Heaven」をかけながら、デミ監督の冥福を祈りたいと思う。

https://urx3.nu/PreI

[2017.5.27  拙ブログ「In A Lonely Place」にアップ]