●清順映画 短評23(ツースリー) [蔵出し記事]

2020年10月14日

◆『すべてが狂ってる』(1960)

清順もやっぱりヌーヴェル・ヴァーグだった


『すべてが狂ってる』(1960)とはいかにも鈴木清順の映画にふさわしい題名だが、彼独自の過激で奇矯な作風は、初期のこの時点ではまだ、作品の枠組みそのものを解体してしまうほど十全に開花しているとは言い難く、むしろ、会社からのお仕着せ企画をいかにテンポのいい演出で軽快にさばくかという職人監督としての彼の技能が際立ってみえる。とりわけ、新旧異なる世代の複数の登場人物たちの運命がすれ違い、交錯するさまを、素早いパンやズーム、長廻しの移動撮影など、多彩な技法を駆使しながら躍動的に描き出すキャメラワークが素晴らしい。

また、題材の新奇さよりは他のヒット作との類縁性を重んじるプログラム・ピクチュアの本性上、清順自身がどこまで意識していたかどうかはともかく、この作品が1960年前後の国内外の同時代的な映画史の流れと親しい共鳴ぶりを示している点も、今日から振り返ってみるととても興味深い。実際、大人や社会に対する鬱屈した反発心を衝動的な犯罪や暴走に叩きつける若者たちの姿を、性や暴力を強調しながら鮮烈に綴った本作の内容が、太陽族映画から増村保造の『くちづけ』(1957)を経て大島渚の『青春残酷物語』(1960)へと至る、当時の日本映画界の新しい潮流に連なっていることは何よりも明らかだし、また、街頭で自動車を盗み出して破滅的な運命の道を一路ひた走る川地民夫の姿は、ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959)の主人公をおのずと想起させる。あるいはまた、異性を前にしてふとためらいを見せる彼の初々しい姿と、バックを効果的に彩るジャズ音楽は、スコリモフスキの痛切な青春映画『出発』(1967)を先取りしているとも言えるかもしれない。


◆『陽炎座』(1981)

松田優作はカモである!?


『陽炎座』(1981)は、鈴木清順が作り上げたおそらく最も巧緻で手のこんだ迷宮世界であり、「生」、「死」、「夢」、「現実」、「お芝居」、「水」、「鏡」、「分身」、「人形」、「裏返し」、「覗き」、等々、さまざまなテーマパークから成るその小宇宙を、観客は気が向くまま何度もそぞろ歩いて、趣向を凝らした仕掛けの数々をいかようにも楽しむことができる。そのツアーガイド役には松田優作が起用され、妙に心許ない足取りで観客を迷宮のあちこちへと引き回すことになる訳だが、とんだぶざまな失態を重ねて一向に本来の目的地に辿り着くことのできない彼の実の正体は、いうなれば作者の思うがままに操られ、踊らされる恰好のカモである。実際、彼は中村嘉葎雄から散弾のかけらの入り混じった鴨料理を振る舞われるかと思うと、同じく中村嘉葎雄から鴨狩りの標的として銃口を向けられ、慌てふためくハメとなる。

ところで、これは決して語呂合わせで適当に言う訳ではないのだが、意味や方向性を徹底的に欠いたノンセンスな遊戯感覚と自己破壊的なアナーキー精神に則って、あれよあれよと見る間に傍若無人に物語が進行していくこの『陽炎座』に似た例を、あえて清順作品以外で探すとしたら、案外、マルクス兄弟主演の『我輩はカモである』(1933 レオ・マッケリー)をその筆頭候補に挙げることが可能かもしれない。自己同一性を欠いた無数の分身が、合わせ鏡のようにめくるめく乱反射を繰り広げる『陽炎座』の荒唐無稽な世界は、『我輩はカモである』の中でグルーチョとハーポがそれぞれお互いの鏡像を模倣し合う、あの有名な鏡のギャグの隔世遺伝といっても、あながち的外れとは言えないだろう。

*本日、5月24日は、鈴木清順監督の93歳の誕生日にあたるので、それを祝って、彼の作品を紹介した拙文を2本、蔵出しさせて頂くことにします。

[上記原稿2本:2016.5.24 旧ブログ「In A Lonely Place」にアップ。ウェブサイト「スロウトレイン」(2000)の初出記事に若干修正を加えた]


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[下記原稿2本:2017.2.22 & 3.1旧ブログ「In A Lonely Place」にアップ。『朝までビデオ2 邦画の夢』(洋泉社 1990)の初出記事に若干修正を加えた]


●追悼 鈴木清順(蔵出し原稿)


このところ、少しまた個人的にバタバタしていて、しばらくブログを留守にするハメとあいなり、ようやく多少体が空いたので、先日亡くなったアメリカの映画評論家リチャード・シッケルの追悼記事をいざ集中して書いていたところへ、今度は、鈴木清順監督の訃報に接し、いささか茫然とする事態に。とはいえ、御多分に漏れず、筆者も学生時代以来、清順映画にはずっといれあげてきたファンのひとりなので、清順師に対しても、手向けの花を供えなくてはと思い立ち、シッケルの方の追悼記事をどうにか書き終えたのに続いて、もう随分昔に書いたこの拙文を引っ張り出してきて、イチから文章を打ち直し、ここに再掲して、とりあえず哀悼の意を表する次第。はからずも追悼記事が続くことになってしまったが、お二方とも、どうか安らかにお眠りください。


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◆『東京流れ者』(1966)


なるほど、清は清ではない。でも、だからといって、清順をデタラメな奴だ、と言うのは間違っている。案外、清順の「順」は従順の「順」かもしれないのだ。そんな馬鹿な、と疑うのなら、この一見荒唐無稽と思われがちな『東京流れ者』をよく見てみるがいい。

渡哲也演じるこの映画の主人公・不死鳥の哲は、どこまでも自分の与えられた役割に対して忠実な人物として描かれる。義理と人情にはさまれて苦悶するやくざの話というだけのことならば、もちろんこの作品以外にも東映のやくざ映画でゴマンとお目にかかれる。しかし、ここでの哲は、それ以外にもいくつかの約束事を課せられている。

例えば、彼の持つコルトの射程距離は10メートルであり、それよりも遠くから敵を撃つことはできない。したがって、彼は銃撃戦の際は常に敵との距離を計測することになる。劇の後半、哲が三方に散った相手と対戦する場面がある。このとき、いったい彼はどうするか。彼はおもむろに3人のちょうど真ん中あたりへコルトをさっとすべらせる。なぜならその点においてのみ、3人は銃から等距離でしかも10メートル以内に位置することになるからだ。哲が危険も顧みずにさっさと武器を投げ出すのを見て呆気にとられたままでいる3人を、彼は銃のところまで走っていった後、見事に倒す。

あるいは、やくざ同士の出入りの最中、哲が『東京流れ者』の主題歌を歌いながら登場し、敵の子分が「畜生、唄なんか歌いやがって」と腹を立てる場面が出てくる。だが、彼はなにも敵をコケにするために唄を歌っているのではない。彼は単にこの映画の主人公であるから主題歌を歌っているだけの話なのだ。

[追記:ここの段の文章、「敵の子分が「畜生、唄なんか歌いやがって」と腹を立てる場面が出てくる」云々は、不死鳥の哲が『東京流れ者』の主題歌を歌いながら登場する場面よりもう少し後の話で、ここで別の唄を歌いながら登場するのは、哲の助っ人たる一匹狼のやくざ、流れ星の健に扮した二谷英明でした。今回あれこれの清順映画と併せて、この『東京流れ者』もまた見直して、今ごろ遅まきながら自分の過ちに気づきました。今さら、文脈そのものを変えるわけにはいかないものの、ここに謹んで部分的に訂正します。]

この単純な「ゲームの規則」が分かったならば、哲がなぜ、東京から庄内、そして長崎へと流れていかなければならないかも、すぐに理解できるだろう。それはつまり、彼が『東京流れ者』だからである。「密告者は密告し、強盗は強盗し、殺し屋はひとを殺し、愛人たちは愛し合う」(『勝手にしやがれ』(1959 ジャン=リュック・ゴダール)より)ように、流れ者も流れるのである。

以上のように規則をあくまでも「順」守する哲の姿を、常に限られた予算と日数内で作品を作り続けなければならなかったプログラム・ピクチュア監督としての清順になぞらえることも、あるいは可能かもしれない。しかし、そんなことはこの作品の面白さを前にしてみればどうでもいいわけで、とりあえずはまず一見を。


◆『ツィゴイネルワイゼン』(1980)&『陽炎座』(1981)


映画の中におけるヒエラルキーやパースペクティヴを無効にしようとする平等主義者・清順は、それまでに作られた清順映画の集大成的フィルムである『ツィゴイネルワイゼン』や『陽炎座』においても、それを実に過激に、そして華麗に実践してみせる。

この2本の映画は、何やら怪しげな人物たちが数名集まって行った壮大なホラ吹き大会、とでも言いたくなる作品である。ある人物が、「実はこんなことがあったんだよ」と奇妙な体験を物語ると、別の人物が「そんなはずはない。だって、それはこうだったんだからね」と別の事柄をしゃべる。また、ある人物たちを評して「彼らの関係はこうなんだよ」と一人が言えば、やはり別の人間が「いや、彼らの関係はああなんだよ」とそれを否定するといった具合に、複数の人物たちが互いに自分たちの主張を譲らない。一つの事柄は、分裂し、反復されながら、無数にそのヴァリアントを生み出し(どこまでも更新される事件!)、それらが互いに密接に関連し合って話は進んでいく。そして、画面は、現実とも嘘とも知れぬそれらの話を律儀に写し出していくばかりである。

ツィゴイネルワイゼン
ツィゴイネルワイゼン

つまり、これらの映画にあってはその主体的語り手が誰なのか判然とせず、登場人物のそれぞれが、時に話の主体、時に客体と交替を繰り返しながら横一線に並んでいる。また、音は画面に従属するものだという映画作りにおける通念も廃棄され、むしろここでは、登場人物たちの語る声が画面そのものを生み出していく。

いや、ことによると、ここでは画面と音とが同調しているようで、実はお互いに全く無関係であるかもしれない。『ツィゴイネルワイゼン』の冒頭は、例によって例のごとく登場した桜の花をタイトルバックに「ツィゴイネルワイゼン」の曲が流れ、次いで、蓄音機にかけられたそのSP盤を写すショットに切り替わる。だが、この時いったんレコード針は持ち上げられるにも関わらず、画面からは「ツィゴイネルワイゼン」が途切れることなく聞こえてくるのだ。

とにかくそんなわけで、これら2つの映画は何もかも根拠を欠いている。そんな作品に対して、「ここはどうしてこうなるのか?」とか「あそこは一体何なんだ」とか馬鹿正直に反応するのは、どうも癪にさわる。ならば、我々も映画を見終わった後、次のように無責任な発言をしてみるのも面白いかもしれない。「この程度の映画じゃまだ甘い。清順よ、早く新作を見せてくれ」と。