●映画本2015 ベストテン(蔵出し原稿)

2019年07月27日

今さら未練などがあるわけではないものの、ここでやはり一応、落とし前をつけておく意味で、筆者の選んだ2015年の映画本ベスト10冊を以下に挙げておくことにします。

ただし、もはやランク付けはなしにして順不同です(数字はあくまで便宜的に付けたもので、評価の順番とは無関係)。

  • ①映画とは何か(アンドレ・バザン/野崎歓・大原宣久・谷本道昭訳)

    ②オーソン・ウェルズ(アンドレ・バザン/堀潤之訳)

    ③アンドレ・バザン 映画を信じた男(野崎歓)

    ④ヒッチコック(エリック・ロメール&クロード・シャブロル/木村建哉・小河原あや訳)

    ⑤ルビッチ・タッチ(ハーマン・G・ワインバーグ/宮本高晴訳)

    ⑥円山町瀬戸際日誌(内藤篤)

    ⑦映画探偵(高槻真樹)

    ⑧映画西口東口(芝山幹郎)

    ⑨ドイツ映画零年(渋谷哲也)

    ⑩サミュエル・フラー自伝(サミュエル・フラー/遠山純生訳)

既に2014年の映画本大賞の選評でも軽く触れたように、近年、デジタル技術の加速度的進歩・日常的浸透により、映画を取り巻く環境が大きく変容しつつある中、ズバリ「映画とは何か」と改めてその本質を問い直し、現代におけるその有効性を検証する上で、待望の新訳登場となったバザンによる映画批評の古典的名著①は、やはり欠かせない必読書。奇しくも昨年、それと相前後して刊行された②と③、さらには、バザンが先鞭をつけた作家主義の映画批評を、師父たる彼自身の当惑をよそに一層過激に推し進め、世界初の本格的ヒッチコック研究書を果敢に世に問うた、若き日のロメール&シャブロルによる共著④を併せて読むことで、バザンの批評が戦後のフランス社会や、やがてヌーヴェル・ヴァーグの重要監督となる若き批評家たちに果たした歴史的な役割や影響、射程の深度を、より広い視野から見極めることができるだろう。

実際のところ、②は、③も的確に指摘している通り、フランス初公開時におけるサルトルらの否定論に敢然と逆らって『市民ケーン』擁護の論陣を張ったバザンの洞察力に最終的に軍配が上がったものの、個々の論述に関しては、今日の目から振り返ってみると多くの不備や限界点があることも否めず、率直に言って食い足りないものであることもたしか。昨年、生誕100年/死後30年を迎えたウェルズの今なお汲み尽せない多面的世界をより深く味わうには、ウェルズ本人のインタビュー集をはじめ、ジェームズ・ネアモアやジョナサン・ローゼンバウムらのウェルズ研究の訳本刊行が、ぜひ待ち望まれるところだ。

これまた作家主義のよく知られた古典的名著で、待望久しい邦訳本の遅ればせの登場となったのが、艶笑喜劇の神様による軽妙洒脱な演出魔術の代名詞を書名に冠した⑤。粋で優雅でなおかつエロそのものといっていい、ルビッチならではの微妙なニュアンスに富んだ奥深い映画世界の魅力に迫るには、時に軽いスケッチだけで駆け足となる原著者の文章だけでは、やや隔靴掻痒の感がなくもないが、日本独自の増補版たる本書には、トリュフォーや山田宏一氏による、痒いところにまでしっかり手が届く、いきいきとした細部描写に富む素晴らしいルビッチ論がボーナス特典として収録されていて、それだけでも充分お釣りがくること請け合いだ。

映画を取り巻く環境の変化ということでいえば、DVDやブルーレイ・コレクションの充実、BS、CS等の放送チャンネル数の増加、さらにはユーチューブの登場などによって、映画の観賞・受容形態の多様化が一層進んだことも、その大きな一つ。それに伴って全国的に映画館が次々と閉館していく中、東京は渋谷の番外地に名画座を開くという暴挙にうってでた、実は東大出の現役エリート弁護士でもある「シネマヴェーラ渋谷」の名物館主(看守?)が、日替わりの番組選定と客の入り具合との相関関係に大いに頭を悩ませながら一喜一憂するさまを、簡にして要を得た上映作品レビューや、愛妻との微笑ましい痴話喧嘩の様子も織り交ぜながら、ユーモラスな筆致で綴った⑥も、無類の面白さに満ちた一冊。

一方、さまざまな映画へのアクセスが容易となった今日にあってなお、なかなか出会うことが難しいのが、ほかならぬ戦前の日本映画。いつの間にか忘れられ、消えてしまった幻の戦前日本映画を探し求めて各地を飛び回る、フィルム・アーカイヴィストや個人コレクターといった"映画探偵"たちの知られざる情熱的な活動ぶりをヴィヴィッドに伝える⑦も、⑥と同様、昨今の流動化する映画の時代状況を的確に反映した好著と言えるかもしれない。

いま述べたように、これは筆者の古典優先主義、退嬰的な懐古趣味などとは断じて異なるつもりなのだが、それでもなんだか、いかにもそれっぽい本がリストにずらりと並んでしまったので、ここで少し視線の方向を転じて、21世紀の映画の現在進行形をぴたりと見据えた元気で活きのいい1冊を挙げると、やはり⑧。どこまでも軽やかなフットワークと貪欲で強靭な胃袋を武器に、最新モードの娯楽映画にもとことん付き合い、酸いも甘いも噛み分けながら、達意の文章でその映画の肝をぎゅっと掴んで読者に差し出す著者の鮮やかな手さばきは、まさに当代随一の名人芸と言えるだろう。

そして最後に(last but not least)、一見対照的であまり共通性もなさそうに思える2冊、ドイツ映画研究者の初の単著となる小ぶりで瀟洒な体裁の⑨と、波瀾万丈の自らの人生=映画を御存知フラーが小気味の良い文章で振り返った分厚い自伝⑩を、いささか強引ではあるが、ぜひ並べて挙げることにしたい。

⑨は、第2次世界大戦直後、すっかり廃墟と化したベルリンの光景をキャメラに収めたロッセリーニの『ドイツ映画零年』や、それに対するバザンの批評、さらには「アウシュヴィッツを撮影しなかったためにドイツ映画は存在しない」というゴダールの挑発的な発言などを紹介した後、主にファスビンダーらの作品を通じて、戦前と戦後のドイツ社会の歴史の切断/連続性の問題を鋭く問いかける、意欲的なドイツ映画小史。

一方、⑩は邦訳本にして800頁近くにも及ぶ文字通りの大著で、その盛り沢山でボリューム満点の内容をここで要約するのは到底無理なので、ここではフラーが「20世紀最大の犯罪の目撃者」となった決定的出来事に関してのみ、簡潔に記しておきたいと思う。

折しもファスビンダーがまさにこの世に誕生しようとしていた1945年5月、フラーは、後に『最前線物語』の中で自ら映画化する通り、米陸軍歩兵大隊の1兵士として、ヨーロッパにおける第2次世界大戦が終結した直後に、当時はドイツの属国になっていたチェコのファルケナウにあったユダヤ人強制収容所に踏み込み、そこでナチス・ドイツによる想像を絶する蛮行の惨状を目の当たりにする。そして、大隊の司令官が町の住民たちに命じて、ほとんど骨と皮だけと化した被収容者たちの痛ましい亡き骸を手厚く葬るさまを、フラーは自らの手持ちの16ミリ・キャメラで粛然と記録映像に収めるのである。既に戦前、ハリウッドで脚本家としてデビューはしていたものの、この体験こそが、「映画は戦場だ!」なる簡潔なフレーズで我々がよく知る、あの映画監督フラーのまさに原点となった(第21章)。

フラーはその後、撮影したフィルムを長年ずっと封印していたが、1980年代後半、あるドキュメンタリー監督の依頼に応じて、その20分ほどのフィルムをついに蔵出しすることに同意すると共に、かつて収容所があった跡地を約40年ぶりに訪れて、その忘れ難い体験を自ら回想している(第52章)。本邦未公開のその中編ドキュメンタリー『ファルケナウ、信じがたい光景』(1988 エミール・ヴァイス)のうちの約3分の2が、現在、ユーチューブにアップされて見ることが可能となっている。どうやら訳者がツイッターで先にその情報を流していたようだが、筆者はそのことを知らぬまま、昨秋たまたま自分で見つけて、名前でのみ知っていたこの作品を初めて目にし、驚天動地のショックを受けた。去年見た500本を超す新旧さまざまな映画の中でも間違いなく一番の決定的重要作。既に御存じの方もいるだろうが、まだ知らない人も多いと思われるので、改めてここにユーチューブのアドレスを示しておくことにしたい。

上記の簡単な紹介と映画の題名からも推測できるように、この作品の中で遂に陽の目を見たフラーの蔵出し映像は、もともとモノクロのサイレントで撮られたものだが、それを観る人からもただちに言葉を奪い、死者たちにいま一度人間としての尊厳を取り戻させるべく、フィルムの中で静かに進行する厳粛な埋葬の儀式を、ただひたすら襟を正して無言でじっと見守るほかないような、戦慄的光景に満ちている。これからこの作品を見ようと思う方は、どうかそれなりの心の準備と覚悟をしてから、いざ鑑賞に臨んでみて欲しい。


https://bit.ly/32R8wXX


なお、余談になるが、先日渋谷のユーロスペースで行なわれたフラー監督の特集上映会で、筆者は『チャイナ・ゲイト』(1957)をスクリーンではおそらく30年ぶりくらいに見直した。劇中、ナット・キング・コール扮する黒人兵が自らの過去を語るくだりで、このファルケナウの地名を持ちだす一場面があるのだが、その時の日本語字幕が妙な名で表記されていて違和感を覚えたので、ここに一応指摘しておきます。

[2016.4.1 旧ブログ「In A Lonely Place」にアップ]