●映画『トランボ』特集  彼は善人だ! ― エドワード・G・ロビンスンについて (蔵出し原稿)

2018年12月29日

先の予告通り、前回に続いてまた、映画『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(2015ジェイ・ローチ)の話の続きを。今回は、赤狩りに苦しめられたひとりの名優の悲劇的人生について、あれこれ話を書き進めることにしたい。

映画『トランボ』は、第2次世界大戦後、東西冷戦が始まる中、赤狩りやブラックリストによってハリウッドを追放される身となった「ハリウッド・テン」の映画人のひとり、ドルトン・トランボが、その逆境にあっても決して屈することなく、家族や業界の仲間と結束・連帯しながら、どこまでもしたたかに生き延びていく様子が描かれる。

けれども、この苛酷な時代を、トランボのように巧みな戦術を駆使して見事に生き延び、最終的に勝ち残った人間は、残念ながらきわめて例外的で、むしろ、その迫害や弾圧に押しつぶされ、抵抗や苦闘の半ばにして深く傷つき、倒れてしまう映画人の方がずっと多かった。とりわけ、撮影現場から遠く離れたところで、変名やフロント(代役として名義を貸してくれる仲間)を自在に使い分けながら、文才だけで勝負できる脚本家ならいざ知らず、実際にキャメラの前に容姿をさらす俳優たちとなると、当然のことながら替え玉作戦で切り抜けるわけにもいかなくなってしまう。

映画『トランボ』の中で、卑劣な赤狩りの猛威に遂に屈することになる、不名誉で損な役回りの人間として登場する実在の映画人が、名優のエドワード・G・ロビンスン(1893-1973)。トーキーの到来と共にワーナーが放ったギャング映画の最初期の傑作『犯罪王リコ』(1931 マーヴィン・ルロイ)で、あの御存知アル・カポネをモデルにした主人公を強烈に演じて、映画の中におけるタフでふてぶてしいギャング像の原型を作り上げた彼は、『俺は善人だ』(1935 ジョン・フォード)でも凶悪なギャングのボスを演じる一方、脱獄した彼と瓜二つの小心者の一市民を一人二役で軽妙に演じ分け、『深夜の告白』(1944 ビリー・ワイルダー)ではフレッド・マクマレー演じる部下の犯罪を鋭く見抜く上司、『飾窓の女』(1944 フリッツ・ラング)では温厚な中年紳士に扮するなど、幅広い役柄を硬軟自在に演じて活躍した。

もともとはユダヤ系の両親の下にルーマニアで生まれ、9歳の時に家族と共にアメリカに渡ってきたロビンスンは、ハリウッドが生み出した最初の反ナチ映画とされる『戦慄のスパイ網』(1939 アナトール・リトヴァク)では、アメリカ国内でひそかに活動するナチのスパイたちを取り締まるFBI捜査官の主人公を熱演。実生活においても、反ナチ、反ファシズムのための政治集会やデモに参加したり、さまざまな組織を支援するために総額25万ドルにも及ぶカンパを寄付したりするなど、リベラルの良識派として積極的に社会活動を行なった。そして第2次世界大戦中は、兵役を志願したものの、既に高齢でそれが叶わなかった代わりに、英・仏・独・伊・露・スペイン・ルーマニア・イディッシュ・ヘブライ語など、幾多の言語に通じたマルチな語学の才能を見込まれて、ナチス・ドイツに占領されたヨーロッパの各国に対し、イギリスからラジオ放送でレジスタンスを呼びかけるなど、連合国の勝利のために貢献した。

ところが戦後、今度は米ソの冷戦が始まり、赤狩りの嵐が吹き荒れるようになると、上記のようなロビンスンの積極的な社会活動がすっかり裏目に出て、下院非米活動委員会から睨まれることになるのだ。ロビンスンは、かつて彼が支援した数百もの政治活動団体のうち、11の団体が実は共産党の関連機関だったとして指弾される。それに対し、ロビンスンは、自分がそうした活動に関わっていたことはオープンに認めた上で、自分は共産党員であったことはないし、それらの団体が共産党の関連機関だったとは知る由もなかったと述べ、間違いなく共産党員であると思う人物の名前を挙げようにも挙げられなかった。

しかし、その後、下院非米活動委員会からは何の音沙汰も表立ったお咎めもないまま、歳月は空しく過ぎ行き、その間、ロビンスンのもとには映画への出演依頼がみるみる減る一方で、この時期やはり苦境にあえいでいた「ハリウッド・テン」の要注意人物ドルトン・トランボから用立てを頼まれ、2500ドルの小切手を渡したことが悪意に満ちた暴露記事によってすっぱ抜かれて広く世間に知れ渡るようになると、もはやハリウッドの誰もが彼との関わりを避けるようになってしまう。この時期、苦悩ですっかりやつれ果て、一気に10年も老け込んでしまったかのような彼の変わりようを目の当たりにして、"父はもうまるで、世界中で最も孤独な男のように思われた"とロビンスンの息子のロビンスン・ジュニアが後に述懐している。

  •  (下院非米活動)委員会がもう一度ロビンスンに話をする機会を与えるまでに、3年を要した。「私は......現在においても過去においても共産党員だったことはないと何度も何度もくり返した」と彼は後に言っている。「それがいったい何の役に立ったろう......? 彼らが私に言わせたかったのは、私がまぬけでカモでばかでアホだということ......私が一個の道具にすぎず、共産党員の陰謀の疑うことを知らぬ手先だということだった。私がそれを言わなかったのは、信奉していなかったからだ。2年後、3度目にして私はそれを言った。防御の姿勢が崩れ、私はそれを言った。判断のねじくれていた私は、それを言った。心を病んでいたので、私はそれを言った」 

      「ハリウッド帝国の興亡」(オットー・フリードリック/柴田京子訳)521頁

      (冒頭のカッコ内の文章は引用者の注。人名や数字表記を若干変えた)


こうして、下院非米活動委員会の前に繰り返し出頭して不本意な証言を強要され、1952年秋、「アカたちはいかにして私をカモに仕立てたか」という懺悔の告白を雑誌に公表した末に、ロビンスンは、理不尽な共産主義シンパとしての嫌疑をようやく公式的に晴らすことになった。最後の証言を終えた後、下院非米活動委員会の委員長は、ロビンスンに対して、「いいかね、この委員会は、君がまさに選ばれし恰好のカモだったことを示す以外のいかなる証拠も提示されたことはない。どうやら君はこの国のまぬけリストのナンバーワンにあるようだ」と述べたという。

こうしたまさに屈辱的と呼ぶ以外にない、ひどい仕打ちに散々苦しめられた後、ロビンスンは、ハリウッドのブラックリストからもようやくその名を外され、数年間の空白期間を経て俳優としての出演依頼が再び舞い込むようになる。しかし、それはもはや、かつてのように、ハリウッドのメジャー映画での主演スター扱いではなく、主に低予算のB級映画、それも脇役に回されることが次第に多くなる。ビリングは一応トップであるものの、実質的には助演格として出演した、ロバート・アルドリッチの監督デビュー作たる低予算中篇映画『ビッグ・リーガー』(1953)は、まさにこの時期、ロビンスンが格落ちして再出発した映画復帰作のうちの1本にあたる。

...筆者自身、こうしてこの文章を書き綴るうち、胸の内にこみ上げる怒りと痛憤のあまり、つい熱い涙をこらえきれなくなってくるが、しかし、ロビンスンの人生の悲劇は、まだこれだけでは終わらなかった。映画『トランボ』にも多少関係しているので、ここでまた、気を取り直して、なおも先へ進まなければならない。

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映画『トランボ』の中の前半において、赤狩り対策でトランボが仲間たちと緊急の会合を開く場所に、ロビンスンがビヴァリーヒルズの高級住宅街にある彼の邸宅を提供し、壁に幾つもの額入りの絵画がかかった広い室内で鳩首会議を行なう場面が出てくる。そしてまた、生活苦にあえぐトランボに対し、ロビンスンが資金援助の手を差し伸べた後、「また必要なら、絵でも売るさ」と述べる場面が、たしかあったはずだ。

先にロビンスンが、『犯罪王リコ』の凄味のあるギャング役で一躍ハリウッドのトップスターの座に上り詰めたのとは対照的に、実生活においては、きわめて洗練されていて教養ある知識人であり、リベラルな良識派として社会活動にも積極的に関わったことを紹介したが、それ以外にロビンスンは、熱烈な美術愛好家にして有数の絵画コレクターとしても世間に知られていた。

ハリウッド・スターとして稼いだ高額のギャラを投じてロビンスンが買い集めた100点を超す絵画コレクションの中には、セザンヌやルノワール、ゴッホ、ゴーギャンをはじめ、ドガ、モネ、スーラ、モディリアーニ、マティス、ピカソ、シャガール、等々、19世紀、20世紀を代表する錚々たる有名画家たちの作品が数多く含まれ、とりわけ印象派絵画の個人コレクションとしては、単に映画界のみならず、全米の中でも屈指の質と量を誇っていた。1941年、ロビンスンは、ある建築家に依頼して、先に紹介したビヴァリーヒルズの高級住宅街にある彼の自宅をすっかり改装し、自らの絵画コレクションをゆったりした室内のスペースに飾って常時鑑賞できる、個人美術館風のモダンなインテリアの邸宅に作り替えた。

https://ur2.link/OTld

彼の自宅を訪れた知人や美術愛好家たちが、それをじっくり鑑賞できたほか、さまざまな美術館からの要望で、ロビンスンが彼の絵画コレクションを展示品として貸し出すこともあった。1953年には、ニューヨーク近代美術館(MOMA)、続いて、ワシントンDCにあるナショナル・ギャラリー(NGA)で、彼の絵画コレクションのうち40点をまとめて紹介する特別展覧会が、それぞれ1カ月以上にわたって巡回開催されたことが、以下の2つのサイトで確認できる。

とりわけ前者の方には、その40点の絵画の個々の作者と作品名が書かれた詳細なリストが付されているのと、ロビンスン自身がこの展覧会に寄せた文章が載っていて、自分はコレクターではなく、コレクションに乗っ取られた罪なき傍観者である、だとか、あなたが絵をコレクトするのではない、絵があなたをコレクトするのだ、等々、ロビンスンのユニークな意見があれこれ軽妙洒脱に述べられていて非常に面白いので、ご興味のある方はぜひどうぞ。

https://ur2.link/OTl8

https://ur2.link/OTlb

映画『飾窓の女』の中では、ロビンスン扮する温厚な大学教授の中年紳士が、街角のショーウィンドウに飾られた美しい女性の肖像画にふと魅せられたことから、彼の前に思いも寄らぬ意外な世界が立ち現れる様子が描かれるわけだが、この場面はまさに、上記のロビンスン自身の心のありようを端的に図示したものといえるだろう(ちなみに、ロビンスンがフリッツ・ラング監督と引き続いて組んだ、同作の姉妹編というべき『スカーレット・ストリート』(1945)では、彼は日曜画家を演じることになる)。

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...さてしかし、ここでまた、赤狩りが、ロビンスンの人生のみならず、この何ものにも代えがたい貴重な財宝である彼の絵画コレクションの運命をも大きく狂わせることになる。赤狩りによる迫害は、ロビンスン個人だけでなく、彼の家庭生活にも甚大な被害をもたらした。

自らに着せられた嫌疑を晴らそうと、ロビンスンが不毛な闘いを続けていたこのつらく苦しい時期、以前から患っていた躁鬱病をさらに悪化させた彼の最初の妻グラディスは、もはやハリウッドに見切りをつけてヨーロッパで新たな生活を築くことを望み、家を空けて海外の地にいることの方が多かった。夫婦間の心のすれ違いや不和、諍いが積み重なる中、1950年代の半ばになると、とうとう彼らの間には離婚話が持ち上がるようになる。

(一方、この間に、ロビンスンは、グラディスとの間にもうけたひとり息子で、やがて父親同様、俳優の道を進むロビンスン・ジュニア(通称マニー)の素行にも大いに悩まされることになる。両親の不和が顕在化したこの時期、思春期から大人への成長期にあったマニーは、始末に負えない不良青年となり、飲酒運転や傷害事件をたびたび引き起こしてはタブロイド記事の恰好の標的となって、ロビンスン家の家庭崩壊をいっそう世間に印象付けることになるのだが、こちらを追っていくと話がさらに長くなってしまうので、ここでは省略。)

先に紹介したMOMAとNGAでの〈エドワード・G・ロビンスン・コレクション〉の展覧会が開催されたのは、既にロビンスンが非米活動委員会の前に出頭して不本意な証言をした翌年の1953年のことだが、その後、離婚問題が生じるなか、グラディスに自身の絵画コレクションを切り売りされて、それが散逸することを恐れたロビンスンは、彼女が旅行中で不在の間に、それらをLAの郡立美術館に半ば一時的な避難場所として預けて、展覧会を開くことにする。旅先から帰宅して自宅のギャラリーからすっかり絵画が消えていることを知り、驚愕したグラディスは、美術館に即刻それらを返却するよう命じるが、美術館での展覧会は大盛況の人気で、彼女ひとりの力ではもはやどうにもならなかった。

グラディスは、カリフォルニア州の法律により、夫の資産の半分は自分の物であり、彼の貴重な絵画コレクションもその中に含まれるとして、自らの取り分を強行に主張。ロビンスンは、そのかけがえのない絵画コレクションをやむなく手放して、それを売却した金でグラディスに離婚の慰謝料を支払うことをついに決意するが、その話が知れ渡ると、展覧会には、墓場荒らしの悪鬼か吸血鬼さながら、下見を兼ねたバイヤー候補たちがさらにどっと押し寄せることになった。

結局、グラディスとの離婚が成立した1956年、ロビンスンの絵画コレクションのすべては(その時点での総数は74点)、世界的な富豪のひとりとして知られたギリシャの海運王スタブロス・ニアルコスによって総額350万ドルで買い取られた。ロビンスンはグラディスに慰謝料を支払った後、改めてニアルコスからコレクションの一部を買い戻したものの、もはやかつてのスター・バリューと資産を持たないロビンスンにとって、セザンヌやルノワール、ゴッホといった有名どころの作品は無論のこと、かつて愛着のあった数多くの絵画も、いまやすっかり高嶺の花と化して手が届かなくなっていた。後年、ヨーロッパのとある美術館で、かつては自分の財宝のひとつだったルオーの絵画と偶然再会した時、ロビンスンは思わず号泣してしまったという。

それでもロビンスンは、ニアルコスから買い戻した14点をもとに、再びこつこつと絵画を買い集めて、ついには88点の絵画から成る第2の〈エドワード・G・ロビンスン・コレクション〉を築き上げ、それらは1971年、2番目の妻ジェーンの手で「Edward G. Robinson's WORLD OF ART」という大判の画集にまとめられて世間に紹介された。そして1973年にロビンスンが死去した後、その第2のコレクションは総額500万ドル以上でアート・ディーラーに売却されることとなった。

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...さて、またいつもの悪い癖ですっかり文章が長くなってしまったが、そろそろロビンスンの俳優人生の方に改めて立ち戻って、いよいよ話の締めに入ることにしよう。

1952年、ロビンスンが下院非米活動委員会の前に自ら出頭し、不本意な証言をしたのと引き換えにようやく映画界に復帰を果たし、格落ちする形で俳優人生の再出発を切ったことは既に述べた。その後しばらく彼の不遇の時期は続くが、ここで意外な人物がロビンスンの前に救い主として現れることになる。それは戦前から活躍するハリウッドの大物監督、セシル・B・デミル。デミルといえば元来、保守反動の極みとも言うべき人物で、映画界における赤狩りの先導=扇動者の役割も実際に担っていたが、ロビンスンの苦境を見るに見かねて、史劇超大作『十戒』(1956)の重要な役のひとりに彼を起用したのだった。これが転機となって、ロビンスンの前には俳優としての道が再び大きく開けるようになり、以後、彼は、『波も涙も暖かい』(1959 フランク・キャプラ)、『サミー南へ行く』(1963 アレクサンダー・マッケンドリック)、『シンシナティ・キッド』(1965 ノーマン・ジュイスン)など、さまざまな映画で、ベテランならではの燻し銀の味わいの名演技を披露するようになる。

しかし、筆者にとって、後年のロビンスンの出演作の中でこれはと思う印象的な1本を挙げるとなると、やはり何といっても、彼の遺作となった『ソイレント・グリーン』(1973 リチャード・フライシャー)をおいてほかにはない。人口過剰となった近未来のディストピア社会を舞台に、その世界の裏のからくりもすべて知った上で、悟り切ったように従容として死の床に就き、クラシックの名曲をBGMに、大自然の美しい風景を眼前のスクリーンで眺めながら、あの世へと静かに旅立っていくロビンスン...。

筆者がこの映画を初めて見たのは、たしか十代の終わり頃で、その時分は無論まだロビンスンの実人生や、安楽死の何たるかもよくは知らぬまま、それでも充分強烈なインパクトを受けたのだったが、今こうして彼の波瀾万丈の生涯を振り返り、そしてまた、この臨終の場面がロビンスンの俳優人生の文字通りのスワンソングとなり、この場面の撮影終了からわずか10日ほど後に彼がその79年の生涯を閉じたと知った上で、あらためてこれを見返してみると、万感胸に迫るものがあり、深い感慨に浸らざるを得ない。はたしてロビンスンは、自分自身の傷だらけの過去とも和解した末に、安らかにあの世へ旅立ってくれたろうか? いずれにせよ、あらためて最後にこれを言っておきたい。彼はまぎれもない善人だったと。


[2016.7.18 拙ブログ「In A Lonely Place」にアップ]