●愛のレジスタンス ― 増村映画における女の闘い、男の闘い(蔵出し原稿)

2019年08月22日

  • 「夫婦、家族、会社、社会、国家という「関係」の中で、折れ合い、妥協し合い、ゆずり合う人間ではなく、その「関係」とたたかい、抵抗し自分を主張する人間を持ち上げてみようと思った。」   (増村保造『イタリアで発見した「個人」』)


0.女と男のいる保造


今は亡き増村保造監督の四半世紀に及ぶ映画キャリアを今日振り返ってみる時、何よりもまず圧倒的な力で観る者に迫ってくるのが、あの強く、気高く、美しい、まさに増村的というほかない魅力的なヒロインたちであることは、誰もが一致して認めるところだろう。『妻は告白する』(1961)、『「女の小箱」より 夫が見た』(1964)、『清作の妻』(1965)他、計20本もの作品でコンビを組んだ若尾文子を筆頭に、『暖流』(1957)の左幸子、『セックス・チェック 第二の性』(1968)の安田(現・大楠)道代、『盲獣』(1969)の緑魔子、『遊び』(1971)の関根(現・高橋)恵子、『大地の子守歌』(1976)の原田美枝子、『曽根崎心中』(1978)の梶芽衣子、等々、ひとたび彼女たちの姿を目にしたなら、その鮮烈で官能的なイメージがいつまでも目に焼き付いて離れなくなることは間違いない。

ともすると我々は、そうした増村的ヒロインたちが発する狂熱的なパワーと魅力に圧倒され、その陰に隠れて、作中の男たちの存在を忘れがちになる。また、増村の映画において、男性を主人公にした作品も少なからずあるのに、それらの作品はどちらかというと傍系として軽く扱われる傾向が見られる。そこで本稿では、増村独自の"女性映画"の世界が、男と女の関係性を深く見つめる中から生み出され、また、一作ごとにステップを積み重ねながら次第に純度を増していったということを、時間と枚数制限の都合上、ここでは主として彼の大映時代の作品をなるべく系列ごとに発展過程を追って見つめながら、解き明かしていくことにしたい。


1.戦闘開始


「映画とは戦場のようなものだ」とはジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』(1965)におけるサミュエル・フラーの有名な台詞だが、増村の映画もまた、フラーの映画と同様、すべて一種の戦争映画である。これは何も、『兵隊やくざ』(1965)や『赤い天使』(1966)といった、文字通り戦場を舞台にした作品だけに限らない。彼の映画において、主人公たちはみな、あるのっぴきならない極限状況のただなかへと投げ出され、その閉塞した状況を打ち破り、自らの存在と欲望を主張すべく、他の人物たちと激しく対立し、闘争する。そして、その闘いにおいて、増村映画のヒーロー、ヒロインたちは迸るような情熱とエネルギーを発揮することになるのだ。

例えば、デビュー作の『くちづけ』(1957)では、貧しさゆえに金持ちのプレイボーイに自らを身売りしようとする少女を救うべく奔走する青年の、若さと愛ゆえの無償の行動が、また『暖流』では、ある一人の男性をめぐって名家のお嬢さんと張り合う庶民的な看護婦の、「情婦でも二号でもいいんだから。待ってます!」という体当たりの恋人立候補宣言が、いずれも鮮烈な形で表現され、観客にすがすがしい感動を与えてくれる。


2.二つの戦線


まるでピューッという渦巻き型の旋風を残して走り去るマンガのキャラクターのように、絶えず画面内を軽快に動き回り、ケタケタと陽気な高笑いをあげたかと思うと次の瞬間にはウウッと泣き崩れる、左幸子の圧倒的に素晴らしい快演の前についかすみがちになるが、実はこの『暖流』において彼女の存在は脇役にすぎない。物語の一応の主役は、ある腐敗した病院の刷新を図るべくそこに新たに乗り込んだ正義感の青年たる根上淳で、彼は院内の守旧派と対決を繰り広げることになる。

一方、左幸子扮する看護婦は、先述したように彼をめぐって名家のお嬢さんと張り合う傍ら、スパイとして彼の闘いの手助けもする。けれども彼女にとって、根上淳を助けるのはあくまで彼の愛を手に入れんがためであって、実のところ病院の内部闘争の行方はどうでもいい。『青空娘』(1957)と同様、勧善懲悪調の明るく楽天的なスタイルで撮られたこの作品において、結局彼女は両方の闘いに勝利を収め、主人公と二人手を携えて朗らかに病院を去り、ハッピーエンドとなる。


3.男の闘い、女の闘い


『暖流』の後、増村映画のある系列において、組織間の抗争の渦中に投げ込まれた男性主人公とそれを脇で見守る女性という物語と人物設定が、幾度も採り上げられ変奏されていくが、そこでは作品の調子はより深刻さを増し、男の闘いと女の闘いの決定的な違いが次第に浮かび上がることになる。

例えば、『暖流』と同じく白坂依志夫が脚本を手がけた、『巨人と玩具』(1958)と『偽学生』(1960)。前者では三つ巴の宣伝合戦を繰り広げる製菓会社、後者では学生運動の高揚を背景に対峙する全学連と警察という、対立グループ間の狂騒的な抗争に巻き込まれた各男性主人公は、自らもその闘いに盲目的に追従することで、個人のアイデンティティと人間性を否応なく剥奪され、その闘争的エネルギーを空しく費消することしかできない。そして、ここでも登場人物たちがスパイ的な役割を果たし、目的のためにはいかなる手段も厭わない組織の論理の卑劣さが、よりくっきりと際立つようになっている。

『黒の試走車』(1962)では、主演の田宮二郎は、新車売り出しをめぐって情報争奪戦を繰り広げる自動車会社の企画部員に扮することになる。先の二作品では、共演の女性たちの役柄が、男性主人公たちと微妙にすれ違い、彼らの非人間的な暴走を食い止め、自由を回復させる契機足りうるには、今一つ重みに欠けていた(つまり結論を先取りしていえば、男女の間に真の愛情が成立しなかった)のに対し、ここでは叶順子が主人公の恋人役を割り当てられ、ある決定的に重要な役割を担う。

ライヴァル会社の機密情報を手に入れるため、田宮二郎は非情にも彼女に、敵の幹部と寝るよう頼むのだが、それに対し彼女は、「よくそんなこと、平気で言えるわね」と低く押し殺した声で彼をなじり、「そんなことしたら、あたしたち、おしまいよ」と、自らの愛を盾に抵抗を試みるのだ。つまり、ここにおいて、自己を捨ててあくまで組織のために生きようとする男の闘いと、自らの愛に忠実に生きる女の闘いが激しく交錯し、ぶつかり合うことになる。

4.対決


『「女の小箱」より 夫が見た』でも同様の設定が繰り返され、会社人間の夫が、自社の生き残りを懸けた株取引のため、競争相手の男と寝てくれ、と妻に懇願する。けれども、ここでの夫役の川崎敬三は、滑稽なほど卑小な存在になり下がり、逆に妻である若尾文子の捨て身の抵抗、というよりむしろ、自らの愛を賭金にした能動的な行動ぶりが前面に大きくせり出すことになる。

彼女は、夫の頼みを冷ややかに聞き入れると、ライヴァルの野心的実業家の田宮二郎に対して、自分を取って愛に生きるか、それとも株を買い占めて仕事に生きるかの選択を迫り、返す刀で今度は、会社を取るか、自分を取るか、夫にもきっぱり二者択一を迫るのだ。その要求は、待ったなしの切迫したものであり、いったんこの究極の運命の選択を下した後、『「女の小箱」より 夫が見た』の男女には(さらに、後の『でんきくらげ』(1970)の主役の男女も)もはや、『黒の試走車』の時のように後戻りは許されない。そして、ここでは哀れな夫の代わりに、田宮二郎が、自らの実業家としての成功の夢をなげうって若尾文子と共に愛に生きることを決然と選び取り、社会のしがらみを超越し、裸の立場で対等に向き合った二人は、狂おしいほど熱烈で純粋な愛に燃え上がることになる。

けれども、それまで田宮二郎自身、岸田今日子演じる内縁の妻の肉体を代償にして自らのキャリアを築いてきた過去があり、彼女を捨てて若尾文子を選んだその報いで、岸田今日子から復讐の刃を受け、鮮血にまみれるはめとなる。岸田今日子の血塗られた犯行もまた、自らの愛を貫き通そうとするがゆえの抵抗から生み落とされたものにほかならない。

5.愛は盲目


ここで、作品の順序は前後するが、増村・若尾コンビの真の黄金時代の開幕を告げる重要な一作となった『妻は告白する』の中での男女のこんなやりとりが思い起こされる。山登りでの滑落事故の際、夫の命を犠牲にしてその部下たる川口浩を救い、その後、人目もはばからず彼につきまとう寡婦の若尾文子に対し、川口浩は「人を殺す人間に、人を愛することはできるのだろうか?」という非難まじりの疑問を呈して、彼女を冷たく突き放す。そんな彼に対し、元婚約者の馬渕晴子は、「愛するために人を殺したのよ」「女の心には愛があるだけ。愛があれば、どんな犯罪だってやるわ」と、同じ女性の立場から若尾文子の気持ちを代弁し、「あなたは、あの人も私も愛してなかったのよ」と彼の薄情な態度を責めるのだ。

人生と愛に対するこの男女の考え方の違いを、同じように凄絶この上ないタッチで鋭く描き出した傑作に『清作の妻』がある。ここでの若尾文子は、明治時代の農村で、妾上がりの女性として周囲の人々から蔑まれ、村八分に遭いながらも、それに屈することなく頑ななまでに毅然と生きるヒロインを演じている。『妻は告白する』の時と同様、絶えず周囲に背を向け、ずしりとのしかかる世間の重圧を、壁や戸に寄りかかることでかろうじてこらえながら、ひとり寄る辺なく佇む彼女の姿は、痛ましいほど切ない魅力を放つのだが、今回はそんな彼女をしっかり受け止める男性が現れる。つまり、村一番の模範青年である田村高廣に見初められて彼と結婚し、彼女は初めて女の幸福を味わうことになるのだ。

けれども夫の方は、幸せな家庭生活を得てもなお、お国のために奉仕することこそ何より大事と信じて疑わず、この点で彼もまた、会社や組織に唯々諾々と追従する先述の他の男性たちと何ら変わることはない(ただし、前作の『兵隊やくざ』では、増村映画の男性主人公には珍しく、田村高廣は勝新太郎と絶妙のコンビを組んで、旧習悪弊ばかりまかり通る日本の軍隊を相手に堂々たる反抗を試み、痛快な活躍を披露している)。

やがて召集されて日露戦争に出征した彼は、負傷していったん故郷に帰り、再び戦場に戻るというその最後の瀬戸際で、愛する夫を再び死地へと行かせたくないという一途な思いから、若尾文子は必死の抵抗を試み、彼の目を五寸釘で刺すという尋常ならざる行為に及ぶ。かくして失明した夫は兵役免除となり、周囲からは妻ともども「非国民」と罵られて一時は半狂乱となるが、次第に落ち着くにつれ、自分に対する妻の真の愛情の深さを思い知るようになる。つまり、彼は妻の手で盲目にされたことで初めて、それまで己や妻の真の幸福をなおざりにしてお国のため一心に邁進してきた自分自身の偏狭で盲目的な生き方に対する蒙を啓かれ、逆に目を見開かれる思いを味わうのだ。

男の猪突猛進型の盲目的な生き方の前に果敢に立ちはだかる、女のひたむきで盲目的な愛情。この、お互いに相異なる盲目状態にある男女が正面からぶつかり合い、そのエネルギーが増幅される時、増村映画のヴォルテージは最高潮に達し、至高の輝きと魅力を放つ。増村映画の男女の生き方を見極める上でプラスにもマイナスにもなりうる、この両刃の剣たる"盲目"という重要な主題は、初期の作品から一貫してその底流をなし、『清作の妻』で文字通り顕在化した後、『華岡青洲の妻』(1967)や『盲獣』でさらに深く追求されることになるのだが、そこへと進む前にまずは、増村映画における別の系列に目を向けることにしよう。


6.谷崎と増村の描く女性像の違い


『清作の妻』と相前後して、増村は1960年代の半ばに『卍』(1964)、『刺青』(1966)、『痴人の愛』(1967)と、谷崎潤一郎の小説を原作に仰ぐ三本の作品を発表している。最初の『卍』は、女性同士の同性愛がメインの主題として取り上げられていてやや特殊だが、これらの作品でもやはり、従来の増村映画同様、男女の関係と愛のあり方が問われることになる。

谷崎の文学と増村の映画の世界は、愛に生きる女性の姿を力強く肯定的に描いた点で共通性があり、この二人の取り合わせはよくマッチしたものとして一般的には高く評価されているが、ここであえて異議を差し挟むなら、この二者にはやはり本質的なところで決定的なずれがあるように思う(ただし、こと若尾文子が谷崎作品の蠱惑的なヒロインを演じることに関しては全く異存がなく、『刺青』はもちろん、非増村映画である『瘋癲老人日記』(1962 木村恵吾)のヒロインは、彼女を置いて他に到底考えられない)。

というのも、増村的なヒロインたちが、肉体的な結びつきを交えてもなお、どこかプラトン的な理想の愛をあくまでも真摯に追い求める存在であるのに対し、谷崎のヒロインたちはむしろエピクロス的快楽主義者であり、その飽くなき快楽への欲求に従って、多くの人々の手を自在に渡り歩いていく存在であるからだ。よって、いかにヒロインを恋い慕う男が(『卍』の場合は女も)彼女に盲目的な愛情を注いでも、当の相手はその手をするりと逃れて去って行き、二人の間の愛は、『痴人の愛』の場合のように、女に対する男の全面的な屈服・拝跪をもってしか、成立することがない。

その代わり、『卍』や『痴人の愛』においては、ヒロインにどこまでも翻弄される男女の姿が、滑稽な中にもどこか虚しさを伴って戯画的に描き出され、逆に『刺青』では、若尾文子扮するヒロインのファム・ファタール的な凄味の利いた悪女ぶりが際立つことになるのである。


7."玩具"の反逆


ところで、『刺青』や『痴人の愛』などの谷崎もの以降、より顕著に目につくようになった増村映画の物語のパターンに、はじめは男の手で嬲りものにされ、あるいは、男の言いなりとなる愛玩物として育てられた女が、やがて女としての自我に目覚めて男たちに反逆を企てるようになる、というものがある。このテーマは実は、無名の少女から宣伝モデルに抜擢された野添ひとみが、やがて男たちの思惑を超えて勝手に独り歩きしだす様子を描いた初期の『巨人と玩具』以来、既にお馴染みのものであり、ここまであれこれ述べてきた増村の映画も、広く解釈すればほとんどこの枠組みに当てはまる。従って、これこそ増村映画の最も包括的なテーマの一つと言えるかもしれない。

先にも軽く触れたように、谷崎の原作もののヒロインたちは、ひとたび女としての魔性に目覚めるや、みるみるうちに底知れぬ邪悪さを秘めた狡猾な悪女に変貌し、男たちを次々に食い物にしていく。また『大悪党』(1968)の緑魔子は、卑劣な手段を弄する点では好一対といえるやくざと腕利き弁護士の間を、男の言いなりの操り人形として行き交ううち、ふてぶてしい女に生まれ変わり、彼女に救いの手を差し伸べた弁護士の田宮二郎に対し、最後は見事なしっぺ返しを食わせる。川津祐介の手で女として磨き立てられた『でんきくらげ』『しびれくらげ』(1970)の渥美マリが、やがて彼と訣別して去って行くのも同様の例と言えよう。


8.女は二度生まれる


前節で挙げた作品では、ヒロインたちの自我の目覚めとその後の男女の関係の変化に、増村的な愛の要素はさほど介在しない。それに対し、例えば、従軍看護婦として最前線の戦場に駆り出され、いきなり負傷兵たちに集団で犯されて戦場の地獄ぶりと直面するはめとなった『赤い天使』の若尾文子は、逆にその悲惨な体験をバネに、まさに天使のような女に生まれ変わり、非人間的な極限状況下で生ける屍や非情な機械と化していた傷病兵や軍医に、まばゆいばかりに崇高で感動的な愛と希望の光をもたらすことになる。

また、愛を通じての男女の主従関係の変転を、まるで劇画の世界を思わせる荒唐無稽なストーリーで端的に綴った異色作に『セックス・チェック 第二の性』がある。ここでのヒロイン、安田道代は、かつて陸上の伝説的スプリンターだった緒形拳扮する一匹狼のコーチにその素質を見出され、女子短距離界のトップ・ランナーとなるべく、彼直伝の猛特訓を徹底的に叩き込まれる。

これまで女ではなしえなかった記録に挑戦するため、彼女はふだんから男として振る舞い「俺」と名乗るよう、鬼コーチから教育されるのだが、競技会を目前に控えたセックス・チェックで彼女は半陰陽と診断され、両性具有の疑いが生じることになる。かくして今度はヒロインを女の側に引き戻すべく、コーチは夜ごと彼女とセックスに励むことになるのだ! 

そして、ここで再び、男の側にとっては思いも寄らぬ誤算が生じる。そう、改めて言うまでもなく、ここに愛が生まれるのだ。そのおかげでトップ・ランナーからただの一人の女に生まれ変わった安田道代の姿を競技会で呆然と見届けた後、しかし緒形拳は、これまで周囲に構うことなくがむしゃらに突っ走ってきた、自らの妄執に凝り固まった生き方から解放され、彼女と二人、晴れやかな表情で会場を去って行く。


9.盲目の愛、ふたたび


さてここで、第5節の終わりに立ち返って、しばらくお預けにしていた"盲目"という主題に正面から取り組んだ二作品を見てみることにしよう。

『華岡青洲の妻』では、江戸時代に実在した医者・華岡青洲が世界最初の手術用麻酔薬を発明するにあたって、その舞台裏で繰り広げられた嫁と姑の激しい確執が描かれる。若尾文子扮するヒロインは、貞女の鑑と謳われる高峰秀子をひそかに慕ってその息子である華岡青洲の妻となるのだが、やがてその姑が外見とは逆に、あくまで自分を華岡家のための道具として利用するにすぎない冷酷な人間であることを知る。そこで若尾文子は、姑の操り人形になるのに必死で抗い、二人の張りつめた争いはやがて、青洲の麻酔薬創造のための実験台として、それぞれが相競って自らの体を彼の前になげうつまでに発展する。いわば青洲を間にはさんだ、嫁と姑の愛の綱引きが始まるわけだが、と同時に、女同士の闘いを見て見ぬふりをし、自らの発明のためには家族が犠牲になるのも辞さない、青洲の男としてのエゴイストぶりも次第に浮き彫りとなる。

結局、青洲をより深く愛し、姑よりも度の強い試薬に果敢に挑んだ若尾文子が、その副作用のために失明するのと引き換えに、青洲の麻酔薬は遂に完成し、この男女三つ巴の闘いは終わりを告げることになる。つまり、若尾文子の文字通りの"盲目の愛"がやはり最後に勝利するのである。

ところで、先の『陸軍中野学校』(1966)では隠密の軍事スパイに扮し、自らの愛を犠牲にしてお国のために働いた市川雷蔵が、この作品ではどこまでも自己中心的な青洲役で、まるで正反対の役柄に挑んでいるわけだが、その一方でここでは、高峰秀子がひたすらお家のためを思う姑役として、かつての増村映画の男性的役割を担っていると言えるかもしれない。

ここで少し寄り道をして、増村映画の男女のセックス・チェックを他にも試してみるならば、やはり家名を重んじて自らの愛を犠牲にする『女の一生』(1962)の京マチ子や、空疎な理想を掲げて会社のために挺身する『妻二人』(1967)の若尾文子などは、さしずめ"男"であり、逆に、まるで駄々っ子のように我を張っていつもふてくされている『兵隊やくざ』『やくざ絶唱』(1970)の勝新太郎は、実は"女"に近い存在と言えるだろう。

10. 愛の盲獣


登場人物は主役の男女のほかにわずか一人(それも物語の半ばで姿を消す)、舞台もほぼ一箇所に限定された過激な実験作である『盲獣』では、盲人であるがゆえに触覚が異常に発達した彫刻家の主人公・船越英二が、ある展覧会で理想的な肉体を持つ女性の彫像と出会い、そのモデルである緑魔子を誘拐して、人里離れた彼のアトリエに監禁する。そして、手や足、目や鼻など、人体のパーツの巨大なオブジェが壁一面を覆い尽くすその異様なアトリエで、彼女をモデルに、自らの唱える触覚芸術の最高峰を打ち立てようと試みるが、彼女と肉体的に交わって初めて知った本物の愛の悦びの前に、船越英二の芸術に賭ける夢と野心はたちまち色褪せる。けれども、その一方で彼は、こちらも愛に燃え上がった緑魔子に引きずられるようにして、今度はひたすら猟奇的な異常性愛の世界にのめりこんでいくのだ。


『清作の妻』や『セックス・チェック 第二の性』のように、男女のぶつかり合いがプラスマイナスで相殺されて最終的にある種の均衡点に到達するのではなく、むしろ男女が二人で相競いながら、外界から隔絶した密室内で盲目的な愛の世界に没入していく時、もはや二人の運命を引き止めるものは、死以外にない。増村映画の中で(そしておそらく日本映画全体の中でも)負の重力が最もグロテスクに突出した本作において、遂に闇の世界で蠢く原始的な下等動物にまで退化した二人の男女は、文字通り阿鼻叫喚の壮絶なラストを迎える。

しかし、増村はその後、大映時代最後の作品となった『遊び』で、原点回帰にも似たみずみずしい青春映画を生み落とす。そして『曽根崎心中』では、むしろ自分たちの意地と誇りを賭けて、堂々と晴れがましく死へと向かう男女の姿を力強く描き出し、そしてまた、"盲目"という主題は『大地の子守歌』へとさらに受け継がれていくのである。

[初出:ウェブサイト「スロウトレイン」(2000)に若干修正を加えた]


*今はなき上記のウェブサイトに本稿を発表した際、実はそれとは別個に、増村映画の中では言及される機会が少ないものの、個人的に偏愛する『濡れた二人』(1968)1本に特化した作品論を書くつもりでいて(従って、この作品はあえて本稿の方からあえて省いた)、その旨予告する後書きをしたためたはずなのだが、それを編集者に削られてしまい、結局その案は以後具体化することなく立ち消えとなってしまったのだった。


それから歳月は流れ、2014年にフィルムセンター(現:国立映画アーカイブ)で増村の大規模な特集上映が開催された際、同館発行のニューズレターに、現代における増村の正統な継承者というべき万田邦敏監督が、その『濡れた二人』を出発点に、読み応えのある増村論を展開しているのを目にして、(スティーヴ・エリクソンと同様、万田監督に対しても、こちらは一面識もないが)ああ、やはり世の中に同志はいるものだな、とつい嬉しくなってしまったものだ。その文章がネットでも参照可能ならば、ここでぜひ紹介したいと思って、ざっと検索してみたが、どうやら無理のようなので、興味がある方はご自分で探してみてください。


[2016.5.13 旧ブログ「In A Lonely Place」にアップ]