●テオ・アンゲロプロス(蔵出し原稿)

2019年10月25日

20世紀が到来した新年元日の早暁。今世紀最初の曙光を拝もうと、盛装の貴族達が小高い丘に建つ古代ギリシアの神殿にやってくる。折しも立ち昇る太陽が眼下に広がる海と島々を照らし出し、その美しい眺望に一同が讃嘆して立ち尽くすなか、忽然と彼らの前に、甲冑を身に纏い、白馬に跨った一人の偉丈夫の姿が、シルエットとなって浮かび上がる......。

映画『アレクサンダー大王』(1980)の息を呑む見事な導入部である。圧政からの解放を待ち望む民衆の想像力によって物語の中に招喚され、神話的人物と一体化した主人公の男は、しかしその後、人々の期待を裏切って独裁者へと転化し、遂にはまた民衆によって消されていく。アンゲロプロス監督はこの作品について、「二十世紀の夢」たる社会主義が挫折に転じてしまった実態を批判的に考察する試み、と自ら説明しているが、二十世紀の希望の光を背負って登場する主人公の男は、まさに「光=リュミエール」そのものを意味してはいないだろうか。すなわち、今世紀が生んだもうひとつの大いなる夢である「映画」のことを?

いや、こと改めてそう言い立てるまでもなく、アンゲロプロスが、ゴダール登場以後の映画史が持ち得た最も傑出したシネアストの一人であること、そして、映画の歴史性に充分自覚的であるがゆえに、常に自己言及的に映画そのものと向き合いながら、その表現の(不)可能性を探る困難な道のりを歩み続けていることなどは、すでに周知の事実だろう。

彼の果敢な挑戦は、1970年代において、ギリシア現代史三部作と呼ばれる作品群となって結実する。日本未公開の『1936年の日々』(1972)は措くとして、『旅芸人の記録』(1975)と『狩人』(1977)は、映画がいかにして歴史を捕捉すべきかという試みが可能性の極限まで追求された、怖るべき傑作だ。これらは、今世紀のギリシアが辿った受難の歴史を、単にクロノロジカルに積み重ねて描くのではなく、ブレヒト的な異化装置と、時にはひとつのショットで異なる時空間を連結してしまう驚異的な長廻し撮影を通して、時間の流れを再構築し、従来の歴史映画とは全く異質の強度溢れる映画的持続を見事達成させている。

またありえないはずの死体の出現が、複数の男女の忌まわしい記憶と幻想を呼び寄せて(というよりむしろ、彼らの無意識的不安が外部に投影されて死体という幻影を生み出し)、物語を始動させる『狩人』の映画的構造は、『アレクサンダー大王』のそれの先駆といえるものだろう(彼らの幻想劇が、ホテルのホール内にあるスクリーン=投影幕の前で展開される点も、到底見逃すわけにはいかない)。

アンゲロプロス監督が、映画に描く対象を集団から個人へと移行させていった、『シテール島への船出』(1984)以降の作品においても、やはりこうした映画的仕掛けは継承されている。『シテール島への船出』の主人公の映画監督は、自作に登場させる父親役の老俳優を探し求めるうち、いつしか映画中映画へと入り込み、長い亡命生活から帰還した老父の過酷な運命を見守る役を、自ら演じるはめに陥る。また『霧の中の風景』(1988)の幼い姉弟は、旅の途中で出会った青年が指し示す映画フィルムの断片に導かれるようにして、「約束の地」たる幻想的な風景へとたどり着くのである。

人間の想像力が映画という夢を呼び寄せ、それはある時には救済とも、またある時には不可避の厭わしい悪夢ともなる。だが現代は、メディアの介在によって、人々の想像力が貧困・均質化を被り、夢見る力が衰えつつある時代でもある。これまでTVなど存在しないかのごとく振る舞ってきたというアンゲロプロスは、『こうのとり、たちずさんで』(1991)において、初めてそれを自作の中に導入してみせた。当然そこには彼の屈折した思いが反映されている訳だが、そうした点を考慮するとしても、この映画には、彼のそれまでの作品の張りつめた空気とはどこか違う、奇妙な稀薄さが漂っているように、筆者には感じられてならない(それは、同じく彼と共に現代映画界を牽引してきたヴィム・ヴェンダース監督の、『夢の涯てまでも』(1991)の全篇を覆う空虚さとも、どこか相通じている。それにしても何と皮肉で象徴的な題名だろう!)。

やはり映画という夢の終わりが近づいているのだろうか。ともあれ、二十世紀の黄昏はもうすぐそこだ......。


[初出:「映画監督ベスト101」(1995 新書館)]