●スティーヴ・エリクソン「ゼロヴィル」 ― Cinema of Hysteria / Histoire(s) du Cinéma (蔵出し原稿)

2019年12月02日

長編小説第3作の「黒い時計の旅」が彼の作品の日本初上陸という形で1990年に邦訳されてすぐさまそれを買い求め、噂にたがわぬその自由奔放な幻視的想像力と鮮烈な文体にすっかり圧倒されて以来、スティーヴ・エリクソンは、筆者にとって現代アメリカ文学の最も好きな愛読作家のひとり。以後も、訳書が刊行される度に購読し、そのユニークで強烈なエリクソン・ワールドに大いに魅了されてきた。昨秋、最新長編小説の「きみを夢みて」がいきなり文庫で初訳刊行されたのも嬉しい驚きだったが、今回ここに紹介する長編小説第8作の「ゼロヴィル」も、2008年の夏に発売された柴田元幸氏責任編集による文芸誌「モンキービジネス」第2号の中に、その原形となる同名短編が載っているのを貪るようにして読み、めくるめくような刺激と興奮を覚えて以来、その刊行をずっと待ち望んできた一作。最近ようやく多少の暇を見つけて、それを一気に読み終え、何ともいわく言い難い不思議な驚きと戦慄に襲われるはめとなった。

エリクソンの愛読者ならば既に御存知のように、彼の作品世界は、ひとたびそれにハマるとつい病みつきとなって離れられなくなる強烈な毒と魅力に満ち溢れている。冒頭に名を挙げた「黒い時計の旅」は、どこかジム・トンプスンを思わせるパルプ作家の主人公が、中間搾取されるのを嫌って、とある上得意の顧客と専属契約を結び、相手の趣味や願望にぴったり叶うポルノ小説を書き綴るうち、彼が特別仕立てで書き綴る当の依頼人Zとは、他ならぬあのアドルフ・ヒトラーであることが判明するという、何とも奇想天外で人を食った物語世界が展開されていくわけだが、最初の出会いから作者の奇怪な妄想にたちどころに感染して取り憑かれてしまった筆者からしてみると、今度の「ゼロヴィル」は、まるでエリクソンがまさにこの自分だけのために書いてくれた小説のようだという、まったく独りよがりで手前勝手な錯覚と妄想をつい覚えずにはいられない。よくもまあ、そんなことが図々しくも言えたものだと、世間の反感と嘲笑を買うことは承知の上で、ここで敢えて再び言おう。そう、この「ゼロヴィル」は、まさに重度のシネフィルたるこの俺に宛てて書かれた極秘のラブレターにして最高の映画小説なのだ!


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エリクソンが、あのジェームズ・ディーンやフランシス・フォード・コッポラ、ポール・シュレイダー、等々、多くの映画人を輩出したカリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)で映画とジャーナリズムを専攻し、彼独自の人生と作品世界を形作る上で、文学や音楽と並んで映画もきわめて重要な役割を担っていること、そして実際、長年にわたって雑誌等で時事的な映画評も手がける筋金入りの映画マニアであることは、彼の作品の愛読者にとっては既に周知の事実だった。映画に関するエリクソンの造詣の深さとその特異な嗜好性は、彼の長編小説第5作「アムニジアスコープ」の中に記された以下の文章とその作品リストを眺めれば、一目瞭然だろう。

  • 「政治なきこの街、アイデンティティもなくいかなる契機も原理もないこの都市にあって、新しい映画が立ち現れることを私は夢見た。私はそれを〈シネマ・オブ・ヒステリア〉と呼んだ。二十世紀のあいだずっと、誰にも気づかれぬままこの映画が徐々に形を成していたことを私は確信した。まさにその本質ゆえ、〈シネマ・オブ・ヒステリア〉は分散していてエントロピー的であり、一部の周縁的映画にその片鱗を示すにとどまっている。

    『孤独な場所で』(1950 ニコラス・レイ)、『上海ジェスチャー』(1941 ジョーゼフ・フォン・スタンバーグ)、『フランケンシュタインの花嫁』(1935 ジェームズ・ホエール)、『陽のあたる場所』(1951 ジョージ・スティーヴンス)、『ギルダ』(1946 チャールズ・ヴィダー)、『拳銃魔』(1949 ジョーゼフ・H・ルイス)、『めまい』(1958 アルフレッド・ヒッチコック)、『片目のジャック』(1960 マーロン・ブランド)、『草原の輝き』(1961 イリア・カザン)、『摩天楼』(1949 キング・ヴィダー)、『影なき狙撃者』(1962 ジョン・フランケンハイマー)、『ピノキオ』(1940 ベン・シャープスティーン&ハミルトン・ラスケ)。

    どれもみな、筋の通らない、意味をなさない、にもかかわらず、完璧に理解可能な映画である。これらこそ、アメリカという国の底が抜け落ちてしまっても残るはずの作品であり、それをつなぎ止める縄を断ち切って、何ひとつ記憶しないアメリカの銀幕上をどもりながら歩いていくにちがいない映画たちである。[...中略...]

    結局のところ、〈シネマ・オブ・ヒステリア〉は精神の奥底に棲んでいるか、精神の一番表層に棲んでいるかのどちらかである。それは言葉を超え思考を超えた真実の、究極的な、甲高い叫びであり、テクノロジーの合理的計算も財政の合理的価格も超越した、さらには疫病の合理的暴力さえも超越した、妄執と救済のテーマを描き出しているのだ。」 

    (柴田元幸訳「アムニジアスコープ」58-59頁。ただし、同書中では題名だけ列挙された映画作品に、製作年と監督名を補足した)


  • 「わがシネマ・オブ・ヒステリアは増殖していく。ほかのものはすべて棚から一掃した。一連の「名作」、すべての「歴史を築いた作品」、観てためになる映画、みんな捨てて、底なしにヒステリカルな映画で埋めた。

    『暴力団』(1955 ジョーゼフ・H・ルイス)、『幻の女』(1944 ロバート・シオドマク)、『ユーモレスク』(1946 ジーン・ネグレスコ)、『哀愁の湖』(1945 ジョン・M・スター ル)、『枯葉』(1956 ロバート・アルドリッチ)、『白昼の決闘』(1946 キング・ヴィダー)、『キャット・ピープルの呪い』(1944 ロバート・ワイズ)、『ピラミッド』(1955 ハワード・ホークス)、『走り来る人々』(1958 ヴィンセント・ミネリ)、『風と共に散る』(1956 ダグラス・サーク)、『セクシー・ダイナマイト』(1964 ダグラス・ヘイズ)、『地球最後の日』(1951 ルドルフ・マテ)。一日二十四時間、音は消して、留守中もずっと、私はそれらをモニターに映している。」 (同153頁)


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そして「ゼロヴィル」は、エリクソンが呼ぶところのこの〈シネマ・オブ・ヒステリア〉が文字通り小説の全篇を埋め尽くし、上記の作品の大半が再び登場するほか、それ以外にも、『裁かるゝジャンヌ』(1928 カール・ドライヤー)、『深夜の告白』(1944ビリー・ワイルダー)、『四十挺の拳銃』(1957 サミュエル・フラー)、『情熱の航路』(1942 アーヴィング・ラパー)、『捜索者』(1956 ジョン・フォード)、『レディ・イヴ』(1941 プレストン・スタージェス)、『コンドル』(1939 ハワード・ホークス)、『殺しの烙印』(1967 鈴木清順)、『タクシードライバー』(1976 マーティン・スコセッシ)、『ローラ殺人事件』(1944 オットー・プレミンジャー)、『昼顔』(1967 ルイス・ブニュエル)、『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』(1976 ジョン・カサヴェテス)、『逢う時はいつも他人』(1960リチャード・クワイン)、『街角 桃色の店』(1940 エルンスト・ルビッチ)、『苦い報酬』(1948 エイブラハム・ポロンスキー)、『ママと娼婦』(1973 ジャン・ユスターシュ)、『ラストタンゴ・イン・パリ』(1972 ベルナルド・ベルトルッチ)、『恐怖のまわり道』(1945 エドガー・G・ウルマー)、『チャイナタウン』(1974 ロマン・ポランスキー)、『ロング・グッドバイ』(1973 ロバート・アルトマン)、『裸足の伯爵夫人』(1954 ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ)、『ゴッドファーザーPARTⅡ』(1974 フランシス・フォード・コッポラ)、『風とライオン』(1975 ジョン・ミリアス)、『エマニエル夫人』(1974 ジュスト・ジャカン)、『アデルの恋の物語』(1975 フランソワ・トリュフォー)、『悪人と美女』(1952 ヴィンセント・ミネリ)、『サムライ』(1967 ジャン=ピエール・メルヴィル)、『木靴の樹』(1978エルマンノ・オルミ)、『殺人者たち』(1964 ドン・シーゲル)、『盲獣』(1969 増村保造)、『黒水仙』(1946 マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー)、『黒い罠』(1958 オーソン・ウェルズ)、等々、幾多の実在の映画作品に関する直接・間接的な言及がなされ、その例はまさに枚挙にいとまがない。

もちろん、ごく一般の読者が、これだけ数が多くて幅広い映画作品について既に見たり知ったりしているということは、なかなか至難の業で、筆者もこの小説の中に登場する映画のすべてを見尽しているわけではない(それでも、劇中で主人公のヴィカーが編集を手がけて論議を呼ぶ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの名曲「Pale Blue Eyes」をもじった映画『君の薄青い瞳』と、エリクソンの長編小説第1作「彷徨う日々」や「アムニジアスコープ」の中にも登場する幻の未完の無声映画『マラーの死』という明らかに虚構の映画を除くと、筆者の未見作は十指に満たないはず)。それに、あとがきで訳者も強調するように、この小説の中で触れられている映画作品について読者が知らないと、「ゼロヴィル」の本質が掴めなくなるということは決してないし、それらの実在する映画へと読者を送り返すことがこの小説の目的ではおそらくない、という訳者の指摘もそれなりに当を得たものではあるだろう。

それでも、作者のエリクソン当人は、「映画に関する題材は、物語や登場人物たちを支えなくちゃいけなかったし、また、それによって情報を与えられる必要があった。この小説は、僕がたまたま好きな映画の単なる案内書って訳ではないし、DVDガイドでもない」と、本作刊行後に行われたあるインタビューで答えていて、各状況に応じた的確な作品の選択がなされていることは間違いなく、映画に関する知識が無論あるに越したことはないはずだ。

https://www.omnivoracious.com/2007/11/steve-erickson.html

[注記:上記のアドレスの元のリンク先が見つからず、それを探すのが何かと面倒で億劫なので、ぜひ元のインタビュー記事を読みたい方は、恐縮ながら、どうかご自分で根気強く探し当ててみて下さい]

「ゼロヴィル」を読み進めながら、筆者は至る所で思わずニヤリとさせられたり、フームなるほどと深く頷かされたりして、似たような趣味嗜好を共有する映画マニアの同志として、劇中のここかしこの細部に対し、ついもっとあれこれ注釈を付け加えたい、という誘惑に抗うことはやはり難しい。

ここにほんの一例を挙げると、主人公のヴィカーが劇中で何度も印象的な出会いと別れを繰り返す、幼い娘連れの美しいシングルマザー、ソレダード・パラディンという名の女性。ことによると、かのルイス・ブニュエルの不義の子かも、という噂がつきまとう彼女は、スペインで"芸術映画"にレズビアン吸血鬼の役で出演したという人物設定がなされていて、その時点で筆者は、これってもしや...と、すぐピンときたのだが、いざネットで検索をかけて調べてみたら、案の定、この重要な女性キャラクターは、『ヴァンピロス・レスボス』(1970)や『シー・キルド・イン・エクスタシー』(1970)などでエロティックな魅力をふりまいた後、27歳で惜しくも事故死したスペインの伝説的美人女優ソレダード・ミランダ(監督はどちらも、ユーロ・トラッシュ映画の粗製濫造人として一部でカルト的人気を誇るジェス・フランコ。そう、先に筆者が、オーソン・ウェルズの『ドン・キホーテ』を説明する際に悪役として名を挙げた、あの彼である)をゆるやかなモデルにして、その美しい歌声で船人たちを招き寄せては難破させる、かのギリシャ神話に登場する女神セイレーンの現代版、映画を愛する者たちのために存在する幻想的な人物に仕立て上げた、と作者本人が自ら解説している別のインタビュー記事が見つかった。

今回筆者が目にした「ゼロヴィル」に関するエリクソンのインタビュー記事の中では、おそらく最も内容が充実していて面白いと思われるので、皆さんも以下をどうぞ。

https://bit.ly/2rGhCsh


ところで、このソレダード・パラディンという女性キャラクターは、主人公のヴィカーの目に、ある時はこの世のものとも思われぬ天使のような美女、そしてまたある時には、まだ幼い愛娘を始終ほったらかしにする無責任な母親のように映るのだが、小説の中盤あたりで、ヴィカーが、彼女の故郷にしてソレダード・ミランダの故郷でもある、スペインはセビリアの近くを物語の舞台にした映画『欲望のあいまいな対象』(1977 ルイス・ブニュエル)を観に行くという挿話が登場する。この映画自体、同じピエール・ルイスの原作小説を映画化した『西班牙狂想曲』(1935 ジョーゼフ・フォン・スタンバーグ)[原題は「THE DEVIL IS A WOMAN」]の3度目のリメイク作品であって既に多重化されている訳だが、ブニュエルが奇想天外な演出を施したこのヴァージョンでは、一見当初は、相異なる2人の女優が同じ名前を持つ2人のヒロインを対照的に演じ分けて、双方に恋情を抱く1人の中年男性を翻弄するかに思えたのが、実は何を隠そう、2人の女優が同一のヒロインを演じていたという仕掛けが、ヴィカーにも次第に呑みこめてくる。

いかにもエリクソン好みのパラレル・ワールドという主題が、紛れもなくここにも顔を覗かせているわけだが、ここで翻って、先に列挙したこの小説中に登場する〈シネマ・オブ・ヒステリア〉の映画作品群を改めて眺めてみると、やはりブニュエルの『昼顔』をはじめ、『めまい』、『レディ・イヴ』、『逢う時はいつも他人』、『街角 桃色の店』、『幻の女』、『ママと娼婦』、『エマニエル夫人』、『哀愁の湖』、等々、表と裏の顔を持つ女性の二面性を描いた映画がそこに大きな比重を占めていること、そしてその選択の必然性に納得がいくことだろう。

そしてまた、先にも軽く触れた『西班牙狂想曲』と『欲望のあいまいな対象』、あるいは『紅塵』(1932 ヴィクター・フレミング)と『モガンボ』(1953 ジョン・フォード)といったオリジナル版とそのリメイク作品、さらには、最近ついに海外でブルーレイ化された、作品の上映分数が総計で13時間近くにも及ぶ伝説的長編大作『アウト・ワン』(1971 ジャック・リヴェット)と、その単純な短縮版という訳では決してない約4時間半版の『アウト・ワン―幽霊』(1972 ジャック・リヴェット)のように、ヴァージョンの異なる複数の作品が並列されているところも、やはり同様の主題を孕んだものとして、到底見過ごす訳にはいかない。


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そして、この「ゼロヴィル」の中で〈シネマ・オブ・ヒステリア〉の頂点に君臨する作品として最も大きく扱われているのが、主人公ヴィカーの剃り上げた頭に、その主役カップルたる美男美女、モンゴメリー・クリフトとエリザベス・テイラーが頬を寄せて抱き合う印象的な一場面が刺青として刻印された、映画『陽のあたる場所』。

この作品について、エリクソンは、これまた別のインタビュー記事の中で、「『陽のあたる場所』は、私が〈シネマ・オブ・ヒステリア〉と呼ぶものの偉大な一例だ。これは、映画撮影所がさまざまな理由から大きく揺らいでいた1940年代後半から1950年代にかけてのスタジオ・システムから生み出された、おそらく最も夢見るようなメジャー映画かもしれない」と述べ、さらに続けて「あの映画にはまったく不合理な歓喜があって―それは、『有頂天時代』(1936)や『ガンガ・ディン』(1939)、『女性No.1』(1942)、あるいはジョージ・スティーヴンスがそれ以前や以後に監督したほかのどの作品とも非常に異なっている―社会的に受け入れられる善悪の概念の外側に位置している。あの映画は、合理的な基準からすると道徳的に馬鹿げていて、でもどこか無意識のレヴェルにおいて我々は完全に理解できるものなんだ」と語っている。

https://bit.ly/2DAdigT


そしてこの作者自身のインタビューでの発言をそのまま引き継ぐ形で、小説「ゼロヴィル」の後半部において、さる登場人物が、次のような意見を述べる場面が登場する。

  •  「だけど見方ってほんとに変わるもんだよな。『陽のあたる場所』を作る前、ジョージ・スティーヴンスは戦争から帰ってきて、それまでに自分がやったことはみんな......取るに足らないことだと思うようになってたんだ。監督やめて戦争で戦って、そうして......収容所にいち早く入って......何もかも見た。ダッハウ。ベルゲン=ベルゼン。そのあと、映画は世界を変えるべきだとあの男は考えた......じゃなけりゃ何の意味がある?と。」

...さて、ここで唐突ながら、すっかり長くなってしまった話を少し巻き戻すことにしたい。筆者はこの拙文の最初の方で、「ゼロヴィル」は、エリクソンがほかならぬこの自分ひとりに宛てて書いたラブレターにして小説であると、不遜にも言い放った。しかし、現代文学の最重要作家のひとりであるエリクソンが、何の一面識もない筆者宛てにそんなことをするはずがないのは、無論こちらも承知しているわけで、それは、埒もない妄想と願望、半ば冗談の入り混じった精一杯の強弁に過ぎない。ただ、それはさておいて、エリクソンにはやはり、この全篇、さまざまな映画の断片を文字通り撚り合わせて作り上げた映画小説(そして作中主人公のヴィカーが、さまざまなフィルムを狂暴に叩き切っては、ほかの誰にもよくは理解できない革新的な編集技法でひねり出した斬新な映画)を、世界中で誰よりもまず、ぜひともこの人に向けて特別に送り届けたいと思う意中の相手がいたのではないだろうか? そして、それはきっと、ジャン=リュック・ゴダールその人に違いないと、筆者は確信している。

ここで改めて振り返ってみると、この「ゼロヴィル」の中に、『勝手にしやがれ』(1959)や『女と男のいる舗道』(1962)、『軽蔑』(1963)と、ゴダールの映画作品も、他の多くの映画と並んでさりげなく盛り込まれていたし、小説のタイトルである「ゼロヴィル」は、同じくゴダールの映画『アルファヴィル』(1965)の中で主人公のエディ・コンスタンチーヌが叫ぶ「ここはアルファヴィルじゃない、ゼロヴィルだ!」という台詞の一節から採られたもの。

そして、「ゼロヴィル」の中にこそ登場しないものの、この小説自体をエリクソンが構想する上で何より一番の発想源になったに違いないと筆者がにらむのが、膨大な数の映画や絵画、写真、書物、音楽などの断片を引用し、それらを斬新でめくるめく編集技法によって自在にモンタージュして、映画の複数の歴史を改めて問い直す『ゴダールの映画史』(1988-98)。とりわけその「第1章=1A:すべての歴史」(1988)において、きわめて印象的に引用される映画こそ、やがて彼らを見舞う悲痛な運命のことなど知らぬまま、幸福そうに湖畔で寄り添うモンゴメリー・クリフトとエリザベス・テイラーの姿を捉えた『陽のあたる場所』の短い一場面だった。

ここでゴダールは、モノクロ映画である『陽のあたる場所』のこの場面からの数ショットを挟みこむような形で、軽く一瞥しただけでは何が映し出されているのか、容易には判別しがたいカラーの映像を2ショット繋ぎ合わせている。それは、第2次世界大戦中、米陸軍通信隊に所属して映画班を率いたジョージ・スティーヴンスが、連合軍による解放直後のユダヤ人強制収容所で撮影した痛ましい屍体の映像で、そこに、「もしジョージ・スティーヴンスが最初に、初めての16ミリ・カラーフィルムをアウシュヴィッツとラーヴェンスブリュック[引用者注:どちらも強制収容所があった場所。ただし、実際にスティーヴンスがこれらの映像を撮影したのはダッハウで、これはゴダールの誤り]で使っていなかったとしたら、たぶん決して、エリザベス・テイラーの幸福は『陽のあたる場所』を見出さなかっただろう」というゴダール自身のコメントが被さり、さらに続いて、水着姿のテイラーが身を起こそうとする姿に、マグダラのマリアが救世主に手を差し伸べようとして拒絶される姿を描いたジョットのフレスコ画が重ね合わせられることになる。

生と死、幸福と絶望、救済への願いとその拒絶、といった具合に、互いに相反するイメージが強引に折り重ねられた、まさにゴダールならではの複雑で厄介なモンタージュを理解するのはなかなか至難の業で、何かと論議を呼んだこれらのシークエンスの解釈は、筆者の手に余るのでここでは省略させてもらうが、いずれにせよ、エリクソンが『ゴダールの映画史』のこの一連のモンタージュを見たのはまず間違いのないところで、それに対する彼なりの返歌として、まさにこの「ゼロヴィル」は書かれたのではないだろうか。それとも、これもまた、筆者の独りよがりな妄想と、皆さんは笑うだろうか?


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さて、先にアドレスを紹介したネット上のインタビュー記事の中で、もしも今後「ゼロヴィル」が映画化されるとしたら、監督には誰を望むかと質問されたエリクソンは、出来れば映画に対して強い関心を持つ(film-conscious)監督であって欲しい、その最も有名で明白な例はマーティン・スコセッシで、彼ならばこの小説が分かってくれるだろうと答え、それ以外に、スティーヴン・ソダーバーグ、クエンティン・タランティーノ、ポール・トーマス・アンダーソン、デイヴィッド・クローネンバーグ、コーエン兄弟などの名を挙げ(残念ながらゴダールの名前はここにはない。初めからどうせ無理、と思っていたのかもしれないが)、さらに主人公のヴィカー役の主演俳優候補として、ライアン・ゴズリング、ホアキン・フェニックス、トビー・マグワイアなどの名前を挙げていた(ちなみに、エリクソンはそこで、主人公ヴィカーにあれこれ映画の編集技法を教え込むベテランの女性フィルム編集者ドティ・ランガー役には、フランシス・マクドーマンドがいいとも述べていたが、1950年代のハリウッドを舞台にしたコーエン兄弟の最新作『ヘイル、シーザー!』(2016)の中には、まさにこのマクドーマンド(今さら言うまでもなく、コーエン兄弟の兄ジョエルの愛妻)が、撮影所に住み着く魔女めいた女性フィルム編集者を怪演していて、単なる偶然とは思えない)。

しかし、「ゼロヴィル」は既にもう、とっくに映画化が決まって2014年の秋から撮影が始まり、いまや映画は完成して、本年中の劇場公開を待つばかりとなっているようだ。自ら主演も兼ねて監督を務めるのは、『スパイダーマン』シリーズ (2002―07)や『オズ はじまりの戦い』(2013 いずれもサム・ライミ)などで知られる人気俳優で、UCLA出身(ただし中退)と、エリクソンやF・F・コッポラらの一応後輩にあたるジェームズ・フランコ。

日本ではいずれも劇場未公開ながら、既に監督作も数多く手がけ、最近は、自らの生まれ故郷を舞台に書き綴った短編小説集が『パロアルト・ストーリー』(2013 ジア・コッポラ)として映画化されたり、あるいはNY大学の大学院で映画製作の実習授業を行なったりするなど、幅広く活躍しているフランコは、2014年のヴェネツィア国際映画祭の会場に、「ゼロヴィル」の主人公ヴィカーに扮して、スキンヘッドの後頭部にM・クリフト&E・テイラーの刺青をしたワイルドな格好で乗り込み、何も知らない観衆たちを巻き込んでゲリラ撮影を敢行。またソレダード・パラディン役には、『ジェニファーズ・ボディ』(2009 カリン・クサマ)のミーガン・フォックスが起用され、『ヴァンピロス・レスボス』のソレダード・ミランダよろしく、レズビアン吸血鬼に扮した彼女の宣伝写真が、いち早くネット上に流通している。はたして映画『ゼロヴィル』がどのような具合に仕上がっているのか、正直なところ、期待と危惧が半々といった感じだが、ジェームズ・フランコによる演出が、奇しくも同じ名を持つジェス・フランコのようなものにだけはなって欲しくないと天に祈りつつ、映画の公開を楽しみに待ちたいと思う。


[2016.4.27 旧ブログ「In A Lonely lace」にアップ]


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[後記]


どうやらこちらの祈りは天に聞き届けてもらえず、映画『ゼロヴィル』の運勢は残念ながら、最悪の凶と出たようだ。同作は、2014年に撮影されたものの、当初の配給会社が2015年に破産して2016年封切りの予定が宙に浮き、長らく棚上げの状態になった末、2019年の9月になってようやく本国アメリカで劇場公開にこぎつけた。

https://bit.ly/2RlhLML


けれども、映画は批評家たちから酷評を浴び、オープニング・ウィークの総収入が11館でわずか8000ドル、翌週は80館に拡大公開されたものの、それでもその週の総収入も前週とさして変わらぬ8897ドルという惨憺たる結果に終わった。

https://bit.ly/2Ye4EhK

これは、映画の公開が運悪く先延ばしになったことよりも、監督・主演のジェームズ・フランコが、セクハラ疑惑で目下、四面楚歌の総スカン状態にあることが、何と言っても最大の要因。2017年10月、ハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの長年にわたる性的虐待疑惑の浮上を機に、セクハラ告発の動きが世界中に波及する中、2018年の1月に催された第75回ゴールデン・グローブ賞の授賞式に出席したフランコは、自ら監督も兼ねた『ディザスター・アーティスト』(2017)で、コメディ/ミュージカル映画部門の主演男優賞を受賞した。ところが、その際に彼が、セクハラ被害の撲滅に連帯を表明する「タイムズ・アップ」運動の黒い服とピンバッジを着用していたことから、よくもまあ、そんな厚顔無恥な真似ができたものだと、彼の偽善ぶりに怒りの声を上げる女性たちのコメントがTwitter上に相次いで投稿されて、SNSが炎上。

フランコは、そうした中傷は事実無根だと主張して自ら火消しに努めたものの、かつて彼にセクハラ被害を受けたとする5人の女性たちが果敢に名乗り出て彼の旧悪を暴露する記事がLAタイムズ紙に掲載され、火に油を注ぐ事態に。そして2019年10月には、このうちの1人と、やはり彼女と同様、フランコの演技学校の元教え子だったもう1人の女性が、演技指導と映画への出演をエサにして自分たちにセクハラを働いたとして、フランコに対し、実際に訴訟に踏み切っている。

フランコは、まさに文字通り"ディザスター・アーティスト"として自ら災厄そのものと化し、それこそ、あのジェス・フランコ並みに旺盛活発で粗製濫造気味だった彼の多方面にわたる創作活動も、今後どこまで続けられるかどうか、先が見通せない状況となりつつある。劇場公開で惨敗を喫した映画『ゼロヴィル』は、既に早々に米アマゾンのプライム・ビデオの方で動画配信されているようだが、はたして日本では、劇場公開ないしはDVDスルー、あるいはやはり、動画配信という形で見ることが出来るのか、出来ないのか。

スティーヴ・エリクソンの一愛読者として、3年前に旧ブログでこの記事を書き上げて以来、映画『ゼロヴィル』の公開を長らく待ちわび、その下準備として、ジェームズ・フランコの監督作も、彼の長編処女作である『ジェームズ・フランコvsエイプ』(2005)を皮切りに、『ディザスター・アーティスト』まで、かれこれ4、5本は既に目を通しているが、個人的には今回の新作(というべきか、旧作と呼ぶべきか)も、あまり変に期待しないでいる方が、どうやら良さそうだ。ただし、エリクソン本人も映写技師の役で劇中にカメオ出演しているらしく、その場面だけはやはりぜひ見ておきたい気がするが、さて一体どうなっていることやら。いずれにせよ、実際に映画を見ると、「言わぬが花」となってしまう公算が高そうなので、それより先の今のタイミングで、この拙文を蔵出ししようと思い立った次第。


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*なお、スティーヴ・エリクソンの小説「ゼロヴィル」の添え物、副読本として、もし興味とお暇がありましたら、以下の拙文もどうかご参照ください。

●まずはやはり、あらためて『孤独な場所で』(1950 ニコラス・レイ)

https://bit.ly/2rK6z1d


●『捜索者』(1956 ジョン・フォード)、『タクシードライバー』(1976 マーティン・スコセッシ)、ポール・シュレイダーについて

https://bit.ly/33CjAHy


●『ボディ・アンド・ソウル』(1947 ロバート・ロッセン)、『苦い報酬』(1948 エイブラハム・ポロンスキー)、ジョン・ガーフィールド、『キッスで殺せ』(1955)、『悪徳』(1955)、『枯葉』(1956)ほか、ロバート・アルドリッチについて

https://bit.ly/2Y8TUAU

https://bit.ly/35XOIm7


●『四十挺の拳銃』(1957 サミュエル・フラー)

https://bit.ly/2DDORzk


●『コンドル』(1939)、『脱出』(1944)、『赤い河』(1948)、『リオ・ブラボー』(1959)ほか、ハワード・ホークスについて

https://bit.ly/37QXg09


●『ロング・グッドバイ』(1973 ロバート・アルトマン)

https://bit.ly/2Re9kCD


●『裸足の伯爵夫人』(1954ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ)、『悪人と美女』(1952 ヴィンセント・ミネリ)

https://bit.ly/2qfiow4


●『成功の甘き香り』(1957 アレクサンダー・マッケンドリック)

https://bit.ly/2Y4FqSQ


●『盲獣』(1969 増村保造)

https://bit.ly/35Zs0dH


●『木靴の樹』(1978エルマンノ・オルミ)

https://bit.ly/2OCyngW