●ジェリー・ルイス(蔵出し原稿)

2020年01月31日

周知の通り、ジェリー・ルイスの作品には、ディーン・マーティンとコンビを組んでいた時期から、コンビを解消してソロとなり、自ら製作や監督業にも乗り出していった後に至るまで、一貫して邦題に『底抜け』という文字が冠せられている。さらにまた、ここにそうしたルイスの出演作のタイトルを幾つか並べてみると、ある種の傾向が見られることに気づく。『~右向け!左』(1950)、『~やぶれかぶれ』(1953)、『~ふんだりけったり』(1953)、『~コンビのるかそるか』(1956)、『~慰問屋行ったり来たり』(1958)、『~てんやわんや』(1960)、等々......。すなわち、二種類の項目がそこでは並置されているのである。

これはルイスの本質をよく捉えた、なかなかのネーミングだと思う。ただし、ここで注視すべきなのは、あれかこれか、という二者択一の問題というよりも、むしろそうした選択意識が芽生える前の段階の、あれもこれも、手当たり次第に思いついたものすべてをいちどきに行いたいという、幼児の無垢なる欲望にも似たルイスの性向である(彼が、顔をしかめ、口を突き出し、1オクターヴ調子の狂った声でけたたましくわめく時、その姿はまさに、好きなものを買ってもらえず、駄々をこねるガキそのものだ)。

けれども、無論彼は、複数の事柄を同時に行うことが出来ない。しかし、その欲望だけはたっぷり持ち合わせている分裂症(スキゾフレニー)のルイスは、この時、耐え難いジレンマに引き裂かれて、顔を、身を、そして言葉を痙攣させるのである。普段はかろうじて一個の有機体としての姿を留めているルイスは、しかし、いったんタガがゆるんだら(つまり、底が抜けてしまったら)、あとはもう、とめどもなく多方向に拡散していってしまう危険性を孕んでいる。

例えば、まるで二人の別人が操っているかのように、手足をバラバラに動かしながら踊る、彼の珍妙なダンス(ルイスは、必ずといってくらい、劇中で音楽に合わせて踊りを披露するのだが、それがまた、どこかワンテンポ、リズムの狂った変なステップを踏んでいる割に、なぜか曲全体としては拍子が合っているという奇妙奇天烈な代物なのだ)。

あるいは、自分のことを説明しようとしだす度に口ごもり、「僕はその......あの、つまり......ああ、だから......」と、一向に要領を得ないまま際限なく横滑りしていく彼の会話。ここで、同じ名前を共有した、もうひとりのルイスのことをつい想起せずにはいられない。すなわち、あのノンセンス[=無意味・無方向]の神様、ルイス・キャロルのことを。ジェリー・ルイスとルイス・キャロルでは、ルイスの位置が名と姓で入れ違いになっているのも、いかにも「鏡の国のアリス」の世界を思わせて、いいではないか。

『底抜け楽じゃないデス』(1958 フランク・タシュリン)の中で、深夜にガールフレンドの部屋に呼び出されたルイスは、彼女の父親が予期せぬ時間に泥酔状態で帰宅したため、故障中でブラウン管がくり抜いてあるテレビの中に逃げ込み、CMや政見放送、あるいは天気予報などの番組を即興で演じるハメに陥る。すなわち、この時彼は、自らが、種々雑多な回路を一つのボックスの中に同居させた複合装置である、テレビそのものと化してしまうのである。また、『底抜けシンデレラ野郎』(1960フランク・タシュリン)において、ルイスが、ラジオから流れてくる軽音楽に合わせてドラムやサックス、フルート他、バンドの演奏者全員の真似を一人で演じる場面なども、彼の複数=多方向性をよく表した場面といえよう。

ルイスのそうした分裂症的傾向は、彼の身振りや映画の中の一場面だけに留まらない。彼の監督デビュー作である『底抜けてんやわんや』(1960)は、作品それ自体が幾つもの断片の寄せ集めから成る一つの奇妙な集積体となっている。すなわち、「ストーリーもプロットもない」と開巻早々自ら観客に告げるこの映画は、ホテルのベルボーイたるルイスが経験するさまざまなエピソードを、一見無造作に繋げた形で一本の作品に構成してあるのである。

肥満治療のためホテルに滞在している女性客に、キャンディを与えて悪戯を楽しむルイス。部屋の片付けをしていて夫婦喧嘩に巻き込まれ、散々な目に遭うルイス。パイロットである客の忘れ物を飛行場に取りに行って、そのまま飛行機を操縦して帰ってくるルイス、等々......。もはやここでは、ルイスは一つの物語に対応した一つのキャラクターという軛から解き放たれ、積極的に何人もの分身を紡ぎ出して戯れている。つまりこの作品には、一人のルイスがいる、というより、それぞれのエピソードに対応した複数のルイスがいる、と言うべきである。さらにまた、ここではそれに輪をかけるかのごとく、ベルボーイとしてのルイス以外に、人気スターであるジェリー・ルイス本人までがホテルに姿を現す始末なのだ。

こうした作劇法は、監督第3作にあたる『底抜け便利屋小僧』(1961)においても変わらない。この作品では、映画撮影所の中をうろつき回るルイスが巻き起こす騒動を、やはり断片形式で描いているのだが、ここでのルイスも、まさに神出鬼没の活躍ぶりを示す。彼は、さまざまな撮影現場に紛れ込んで本番をぶちこわしにするかと思うと、いつのまにか社長夫人の専属運転手に変身して、彼女をガソリンスタンドの洗車マシンで水浸しにしたり、倉庫でマネキン人形と戯れているうち、自らも人形と化してしまうかと思うと、なぜかグラマー女優の横でテレビに映っていたりする。そして、ここでもまたラスト、期せずして映画スターとなったルイスは、かつての自分に生き写しである、ポスター貼りのもう一人のルイスと相対することになるのである。

『底抜け大学教授』(1963 ジェリー・ルイス)は、いま述べた二作品と比べると物語性がやや強まっている分、「ジキルとハイド」的な分身のテーマも明確に表れるようになっている。度の強い眼鏡をかけ、いかにも冴えない容姿で授業を行っては、生徒たちに馬鹿にされている化学教授のルイスは、自分の発明した薬物を飲むことで、たちまち目の醒めるようなプレイボーイに変身する。イーディス・ヘッドの手になる(当時の)最新モードのスーツに身を包み、颯爽とみんなの前に姿を現したルイスは、いちゃもんをつけにきた不良たちを軽く叩きのめすと、キザな台詞を連発して、以前から心惹かれていた女生徒をかき口説く。ところが、残念なるかな、薬の効く時間は僅かしかもたず、やがて元の冴えない彼の地が顔を覗かせだすのだ。うっとりとした聴衆を前にして、ピアノの弾き語りをしているうち、ルイスの美声に、次第に、鵞鳥の鳴き声を思わせる例のダミ声がたち混じり始める場面の、抱腹絶倒のおかしさ。おそらくここは、一人で複数の人格を同時に生きようとするルイスの絶えざる欲望とその不可能性が、ついに顕在化する決定的瞬間といっても過言ではないだろう。

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さて、今日の日本では、かつての人気などまるで嘘であったかのごとく、ジェリー・ルイスは忘れられた存在になりつつあるようだ。なるほど、10年間のブランクを経て映画活動を再開した後の彼の姿は、『底抜け再就職も楽じゃない』(1981 ジェリー・ルイス)、『キング・オブ・コメディ』(1983 マーティン・スコセッシ)、『私のパパはマフィアの首領』(1989 スーザン・シーデルマン)でお目にかかることができたが、それ以前の旧作は最近全く映画館で上映されず、ほとんどビデオにもなっていない。時おり深夜にひっそりとテレビ放映されるわずかな機会を汲んでこの文章を書き上げたが、まだまだ注目に値するであろう未見の作品も数多い。ぜひ、ルイス見直しの機運が盛り上がって欲しいものだ。

最後になったが、ルイスの映画世界を、モデルの不在の隠蔽を使命とする囮としての装置という、映画本質論的観点から解読した、松浦寿輝氏の卓抜な論考「囮と人形―相似の映画論」(「映画n-1」)を参照したことを付記しておく。


[初出:『男優伝説Ⅱ』(洋泉社 1992)を若干修正した]


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ご覧の通り、上記の文章を書いたのは1992年で、もうかれこれ四半世紀も前のことになるが、その後2004年になって、ようやくジェリー・ルイスの映画が7本ばかり、日本でもDVD化されて容易に見られるようになったのは、彼のファンの一人として喜ばしいかぎり。ただ、この中には、同時期に海外ではDVD化された『底抜け00の男』(1964 フランク・タシュリン)や『底抜け男性No.7』(1965 ジェリー・ルイス)といった傑作が、なぜか外されているのが、何とも残念なところ。というのも後者は、ルイスが1人で7役をこなすという、「分身」をテーマにした彼の映画の集大成ともいうべき爆笑作。

そして、「The Disorderly Orderly」という、何とも絶妙なタイトルを原題に持つ前者では、病院の雑役夫として働くルイスが、ある場面で、拘束衣を着せられ、四苦八苦しながら地面を這いつくばっていると、彼の目の前を「お先に失礼」とばかりに、1匹のカタツムリがスーッと通り過ぎていくという、もともとはカトゥーニスト出身のタシュリンならではの爆笑ギャグがあって、実は『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』(2013 マーティン・スコセッシ)の劇中、御存知レオナルド・ディカプリオが、ドラッグですっかりヘロヘロになりながら、愛車のランボルギーニにどうにか乗り込もうとするあたりを見ながら、筆者がふと思い浮かべたのが、まさに『底抜け00の男』のこの場面だった。

(『底抜け00の男』のちょうどいい場面が、ユーチューブでは見つからなかったので、とりあえず『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』の当該場面だけ、以下でどうぞ。)

https://bit.ly/36HeH1l

皆もよく知る通り、ディカプリオ自身は、『アビエイター』(2004 マーティン・スコセッシ)でのハワード・ヒューズ、あるいは『J・エドガー』(2011 クリント・イーストウッド)でのJ・エドガー・フーヴァーのように、スキゾ(分裂)型のジェリー・ルイスとは対照的に、むしろパラノ(偏執)型の人物を好んで演じたがる傾向が強く、毎回毎回、えらく肩肘を張って、すっかり力みかえりながら画面の中に登場するたびに、筆者としては、「おいおいレオ、いいからもう少し肩の力を抜いて落ち着けよ」と、つい声をかけてやりたくなるところではあるのだが、俳優として何とも興味深い存在であることはたしか。いずれ機会があれば、ひょっとするとディカプリオ論に挑戦する日が来るかもしれない。


[2016.9.8 旧ブログ「In A Lonely Place」にアップ。初出:『男優伝説Ⅱ』(洋泉社 1992)を若干修正した。]