●『昭和歌謡大全集』(2002 篠原哲雄)  オタクとカラオケ ― 他者なき世界 (蔵出し原稿) 

2021年01月17日
  • 「いつものように誰もが勝手にさまざまな告白をし、誰もがそれを聞くことなく、常に誰かがバカ笑いを部屋中に響かせて時間が過ぎていき―」     (村上龍「昭和歌謡大全集」)


のっけから私事にわたって恐縮だが、カラオケというものがどうも自分は好きになれない。仲間同士、数人連れ立ってわざわざ狭いボックス内に閉じ籠もり、各自が代わり番こにマイクを握っては、お気に入りの曲を選んで自慢ののどを披露し合い、歌い手がその場の主役を務めているかのような束の間の幻想を味わっている間、ほかの連中はやむなくお義理でその場のノリに適当に合わせるふりを装いながら、早く次に自分の番が回ってこないか心待ちにする。密室内にくぐもって鳴り響く大音量のせいでお互いの会話は遮断され、相互に真のコミュニケーションは成り立たないまま、ただその場の狂躁的な雰囲気をみんなで何となく共有したという、稀薄で曖昧な共同体意識だけがあとに残される―。

そしてここ数年、作者はそれぞれ違うが、ある種似たような傾向を持つ日本映画に続けて遭遇するようになってから、これはどこか、周囲の反応などにお構いなく自己陶酔的に声を張り上げて歌う他人のカラオケに無理矢理付き合わされて、薄ら寒い感じを味わう体験に似ている、とぼんやり考えるようになっていた。

そんな矢先、まさにカラオケを物語の根幹に据えた映画『昭和歌謡大全集』(2002篠原哲雄)と出会い、その漠然とした考えを掘り下げる絶好の機会を与えられたような気がした。 

しかもこの映画には、先に述べた"ある種似たような傾向を持つ日本映画"の典型的な例と個人的に考える『PARTY7』(2000 石井克人)や『ナイン・ソウルズ』(2003 豊田利晃)と同じ、原田芳雄が主要キャストの一人に配されているのも、何やら徴候的で興味深く思える。そこでまず、『PARTY7』と『ナイン・ソウルズ』を簡単に振り返って、最近の日本映画のある種の傾向についての私見を述べた後で、『昭和歌謡大全集』について考えてみることにしたい。

さて、原田芳雄といえば、御存知の通り、常にアクの強い個性を全面に押し出し、どの監督の映画にどのような役柄で出ようと、結局のところ原田芳雄その人として異彩を放つ、傍若無人なオレ様役者というイメージが以前から強かった。けれども『PARTY7』では、石井克人監督がまさにオタク的というほかないセンスを発揮して、作中の登場人物の一人一人に過剰なまでに奇抜なキャラター設定を施したおかげで、いわば誰もが傍若無人な"原田芳雄的存在"と化し、従来のように原田芳雄一人が作品全体の中で浮いて見えるのではなく、むしろワン・オブ・ゼムとして全体の中に呑み込まれてしまった感がある。

実際、『PARTY7』には、周囲の他者や社会との距離感をすっぽり欠落させた、始末に負えないオタク的人物ばかりが登場する。彼らはみな、ただ自分の幼児的な欲望とエゴイズムにのみ忠実に勝手気ままな行動を繰り広げ、決して相手の立場から物事を見直すことがない。お互いの間で真に人間的な対話や葛藤劇が成り立たず、彼らの主張や行動はどこまでも平行線をたどったまま、破局的なクライマックスへと雪崩れ込んでいく。オレが、アタシが、と、誰もが臆面もなく自らのエゴを剥き出しにしてけたたましい乱痴気騒ぎを繰り広げるその様子には、驚きや呆れるのを通り越して、つい許し難いという怒りの感情に駆られたものだった。

一方、豊田利晃監督の『ナイン・ソウルズ』で映画の主役となるのは、やはり原田芳雄を含んだ九人の脱獄囚たちで、特にオタクとは設定されていないが、同じく彼らも周囲との社会的な関係性を欠落させた、何とも薄っぺらな存在にみえる。

「"人と人との繋がりや、人が集まることで何かが生まれるんじゃないか"というところに興味があるので、群像劇が多くなる」という同監督のプレスでの言葉とは裏腹に、同房の囚人であった彼らは、思いがけず脱獄に成功した後、はじめのうちこそ行動を共にするが、その間にとりたてて特別な絆が相互に芽生えることはなく、むしろ彼らは、各自がずっと前からトラウマのように心の内に抱え持っていた過去の固着対象に向かって、てんでんばらばらに散っていくばかりなのだ。

映画のでだしの方に、ひょんなことから脱獄に成功した九人の男たちが、荒野を喜び勇んで飛び跳ねまわるロング・ショットに字幕を被せて、彼ら一人一人の犯した罪と刑期を順番に次々と紹介するところが出てくる。こうすることで、彼らのプロフィールと性格が一瞬のうちにお互い同士、クリアで了解可能なものとなり、と同時に、観客に対する登場人物たちのキャラ紹介の手続きも完了する。そう作者は踏んで、一見クールで簡便な処理法を考えついたのだろうが、アニメやゲームの世界ならいざ知らず、生身の人間同士がお互いに他者として対峙し合う現実世界で、こんな都合のいい透過的視点が成り立つことなど、決してありえない。

以上、ざっと論評してきた二作品は、奇しくもどちらも題名に数字を含んでいて、いちおう群像劇風に見えるのだが、実のところ、複数の人物たちが各自勝手な一人芝居を繰り広げる、単線的なエピソードの寄せ集めにしかすぎないと言えるだろう。


さて、ここでようやく話は『昭和歌謡大全集』に移る。原作は村上龍がすでに十年前に雑誌に連載していた同名小説で、その内容は、オタク仲間の青年たちと、みんな同じ名前を持つバツイチのオバサン集団という、共にカラオケ好きの二つのグループが、思いがけず仲間のメンバーを殺されたことから、お互いに報復の殺戮作戦をエスカレートさせていくというもの。限りなくシック・ジョークに近いグロテスクな物語であり、オタクやカラオケなど、これまで否定的に書き連ねてきたネタにも事欠かないのだが、この作品ではそれらの要素はむしろ、現代社会におけるコミニケーションの空疎な実態をより鮮明に浮き彫りにする装置として有効に機能しており、当初は、やれやれ、またか...と思いつつこの映画を見進めていくうち、そのひねりの効いた批評性に次第に合点が行って、自分でも意外なことに新鮮な面白さを味わうことができた。

村上龍が自ら説明する通り、オタクたちも、オバサンたちも、物語の最後に至るまで「自己嫌悪も反省も逡巡も後悔もなく、まるでスポーツやダンスを楽しむように殺し合いを続ける」わけだが、そんな彼らにベッタリ寄り添うのではなく、時に違和的な視線をさりげなくさしはさんで、あまりにも能天気な彼らの自足ぶりに小さな風穴を開ける、原作者および篠原哲雄監督の絶妙な対象との距離の置き方が、この映画を、先述した二本の映画から、一見微妙ではあるがしかし決定的に分け隔てている。

オタクの青年グループたちが定期的に催すカラオケ・パーティは、その舞台を狭い密室内からひとけのない野外へと移されることで、一層スカスカでうそ寒い儀式性を強調され、また、ふだんは内輪同士で何の気なしにカラオケを楽しんでいたオバサンたちは、オタクたちとの戦闘に使用するロケットランチャーを彼女たちに調達してくれた御褒美代わりに、自衛隊員のオヤジの絶望的に下手くそで耐え難いカラオケに付き合わされ、何とも居心地悪い感じを味わうハメとなるのだ。

それまでただ何とはなしに群れ集まり、「意思の疎通はなくてもいつも一緒にお互いの話を聞かずに喋り合っていた」、それぞれ似た者同士の両グループのメンバーたちは、共に仲間の一員を殺されたのを契機に、初めて他人の話に耳を傾けることを覚え、真の集団的関係への第一歩を踏み出す。モラルや社会常識を欠いた下等動物にも等しい彼らの人間化への歩みは結局そこ止まりで終わり、あとはただ後先も考えぬまま、お互いに全面対決への道を辿るばかりなのだが、それでも、ひたすら「動物化するポストモダン」(東浩紀)が進行するこの現代日本社会においては、このささやかな一歩にも、それなりに大きな意義があると言えないだろうか?


[初出:「映画芸術 2003年秋号 405」]