●『散歩する侵略者』(2017 黒沢清)(蔵出し原稿)

2019年06月23日

●そのアイディア、もらうよ。『散歩する侵略者』をガイドに、軽く映画史散歩

先に予告していたように、今回は、しばらく前に試写で見て、おおっ、こいつは滅法面白い! と、すっかり興奮と刺激を覚えた黒沢清監督の話題の新作映画、『散歩する侵略者』を張り切って紹介することにしたい。

https://bit.ly/2IZFiwI

これまで主にホラー仕立ての異色作を数多く手掛けてきた黒沢監督が、今回、前川知大の同名人気舞台劇をもとに、この『散歩する侵略者』において初めて本格的に挑んだ題材とジャンルは、宇宙人たちによる地球侵略もののSFサスペンス。ただし、黒沢監督の何とも厄介で批評家泣かせなところは、ジャンル映画の歴史とゲームの規則を熟知した上で、それをたえず果敢に踏み越えてジャンルによる区分け自体を脱臼させてしまう、軽やかな実験的遊戯精神にある。

本作も、SFとサスペンスのみならず、コメディやホラー、アクション、さらにはラブ・ロマンスなど、さまざまな娯楽的要素が一本の映画の中に惜し気もなく投入されて、冒頭から奇想天外な物語があれよあれよという間に傍若無人に進行し、観る者を何とも摩訶不思議な映画世界へといざなっていく。今年5月のカンヌ国際映画祭でのお披露目上映時に本作を見たハリウッドの大手業界紙の一記者が、「冗談のようなSFの模倣とよじれたロマ・コメ、そして黙示録的なスリラーの間でたえずギアシフトを繰り返し、一つのジャンルに絞ったならば、この映画も上手くいったかもしれないのに...」と、いささか困惑気味に作品評を書き記しているが、むしろ、そうした多種多様な異質の要素をあえて大胆不敵に掛け合わせて、斬新で未知なるワンダーランドを生み出すことこそ、黒沢監督の真骨頂。この『散歩する侵略者』は、そんな黒沢監督ならではの緩急自在で融通無碍な演出マジックが遺憾なく発揮された、会心の傑作エンターテインメントと言えるだろう。

地球侵略もののSFサスペンス、とひとまず述べてはみたものの、本作の中に登場する宇宙人たちは、例えばH・G・ウェルズのSF小説の古典を映画化した『宇宙戦争』(1953 バイロン・ハスキン)や、スティーヴン・スピルバーグ監督による同名のリメイク映画(2005)に登場する、いかにも現実離れした恐ろしい怪物=エイリアンなどとは違って(ただし、その素の正体がそうである可能性は充分ある)、外見だけでは、ごく普通の人間とまるで区別がつかない。地球侵略のための先遣隊としてやって来た彼らは、まずは人間の肉体を奪ってそこに乗り移り、かくして、この『散歩する侵略者』においては、松田龍平、高杉真宙、恒松祐里の3人が、あくまで見た目は人間の姿形をした「宇宙人」として、たえず周囲の人々や我々観客の意表を衝く奇妙な行動を繰り広げていくことになる。

この点で、『散歩する侵略者』は、先に名を挙げた『宇宙戦争』などよりも、ジャック・フィニーの小説「盗まれた街」をもとに、やはり人間の肉体を乗っ取った宇宙人たちの恐るべき地球侵略計画の様子を描いたSF仕立てのフィルム・ノワールの傑作、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956 ドン・シーゲル)の系譜に近い作品と言える。とりわけ、松田龍平は本来、この映画のヒロイン、長澤まさみとは仲違い中の夫というのが、彼のキャラクターの初期設定で、数日間家を空けている間に、肉体を乗っ取られて「宇宙人」に変貌して妻のもとに舞い戻り、以前とはどこか違う彼の不思議な変わりように、長澤まさみが当惑と苛立ちを募らせていくという展開は、やはり『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』、さらには、クリント・イーストウッドのさまざまな映画をも、つい想起せずにはいられない。

(以前、筆者は、「チェンジ/リングの神話学 ― 変貌/回帰し続ける映画界の偉大なストレンジャー」と題したイーストウッド論を書いたことがあって、その中で、ざっと次のように述べていた。

「どこかへ行って再び舞い戻ってくると、そのとき既に、彼は元のものとは何かしら違う別人へと変貌を遂げていた。」これは「さまざまな映画に頻出する、きわめてイーストウッド的な特徴を帯びた出来事である」と同時に、「イーストウッドの師たるドン・シーゲル監督の初期の代表作『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』の中で生じるあの戦慄的事態、"見た目は同じに見えるけど、でもこの人は、私の知ってるあの人じゃない!"を、イーストウッドが鮮やかに継承・発展させたものと言えるだろう」。

以下をぜひ参照のこと。

https://bit.ly/2WVh6Fw)

とはいえ、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』が、息詰まるような切迫した緊張感と閉塞感を全編に漲らせていたのに比べると、この『散歩する侵略者』は、まるで人を食ったような奇抜なブラック・ユーモアや意外な驚きに満ち溢れ、奇妙に開放的なムードがその作品全体を漂っているのが、何よりの大きな違い。

『散歩する侵略者』の宇宙人たちは、その題名にもある通り、飄々と「散歩」を繰り返しては、地球の人類がはたしていかなる生物なのか、その生活様式をじっくり観察し、これまで彼ら宇宙人たちがまるで知らなかった、「家族」や「仕事」といった人間社会を司るさまざまな概念を周囲の人々から略奪・採集しては、その学習にせっせと励むのである(この時、長澤まさみが松田龍平の、そして一匹狼のジャーナリストたる長谷川博己が、高杉真宙、次いで恒松祐里の「ガイド」を務めることとなる)。

もともと原作の舞台劇にあったそのアイディア自体、何ともユニークで秀逸だが、それに加えて、この映画『散歩する侵略者』の中で、松田龍平ら宇宙人たちが、人々からある概念を奪い取る時に見せる仕草が、これまた実に愉快で思わずニヤリとさせられる。彼ら宇宙人たちは、これと標的を定めた人間の前でゆっくりと片手をかざし、人差し指で相手の額を軽く小突くと、自分がそれまで執着していた概念を抜き取られた人間は、不意に放心状態に陥って、その場にがっくりと崩れ落ちることになるのだ。

松田龍平や高杉真宙らが劇中で何度か繰り返すこの独特の様式化された仕草、映画ファンならばきっと、これって前にどこかで見たことがあるような...と思うのではないだろうか? 筆者がこれらの場面を見ながら、即座に脳裡に思い浮かべた映画作品は、実は2本あって、1本は御存知、『E.T.』(1982 スティーヴン・スピルバーグ)。そしてもう1本は『お早よう』(1959 小津安二郎)。片や、地球に取り残された異星人のE.T.が少年と心を通い合わせる感動の名場面で、『散歩する侵略者』の当該場面とはまるで対極にある状況設定。そして他方は、子供たちの間でなぜか流行している"オナラごっこ"遊びの中で披露される爆笑ギャグのひとコマで、この『散歩する侵略者』での場面と直接的には関係なく、あるいは単にこちらの独り合点という可能性もなくはないが、筋金入りのスピルバーグ主義者、そしてまた、小津主義者として広く知られる黒沢監督だけに、これはやはり、彼が敬愛する映画作家たちの作品からそれぞれ一部を引用・頂戴してきたものと筆者はにらんでいる。

過去の映画作品からの引用ということで言えば、『散歩する侵略者』の終盤のクライマックスには、長谷川博己が上空を飛来する飛行機から爆撃を受け、ひとり必死に地上を逃げ回るという、『北北西に進路を取れ』(1959 アルフレッド・ヒッチコック)の有名な一場面をつい想起させずにはおかないサービス満点の派手なアクション場面も用意されていて、映画ファンを喜ばせてくれる。

ただし、この『散歩する侵略者』では、上記の場面での長谷川博己ひとりに限らず、映画の冒頭、血まみれのセーラー服を着た女子高生姿の恒松祐里が、車道の真ん中をどこまでものらりくらりと無頓着に歩いてその背後で大惨事を引き起こす衝撃的なオープニングをはじめ、彼女と同様、乗り移った人間の肉体とはどうもうまくフィットしないのか、まるで軟体動物よろしく体がぐにゃりとなって自らを支えきれず、路傍にへたりこむ松田龍平、さらには、先にも述べた通り、彼ら宇宙人たちから自身の概念を奪われてその場にがっくりと崩れ落ちる前田敦子、光石研、等々、侵略する側、される側の双方の登場人物たちがいずれも皆、その身体を使って見事な「散歩」(=ここでは「歩」が「散」り散りバラバラになる、と解釈した方が分かりやすいかもしれない)芸を披露しているのも見逃せない。

***************************************

さて、シーゲル、イーストウッド、スピルバーグ、小津、ヒッチコック...と、現代日本映画界屈指のシネフィルである黒沢監督が、映画を語る上でたえずその名を引き合いに出し、筆者自身も大好きな映画作家のビッグネームばかりをつい臆面もなく並べ立ててしまったが、この『散歩する侵略者』は無論、何よりもまず、黒沢監督独自の映画作品である。

「俺、死んだよ」と言いながら、しかし見た目は全然、死者や幽霊らしくなく、生前の彼の姿形と一向に変わらないまま、妻の深津絵里の前にこともなげに姿を現す『岸辺の旅』(2015)の浅野忠信のように、外見は変わらなくとも、やはり普通の人間とはどこか異なる「不気味なストレンジャー」に変貌して回帰した『散歩する侵略者』の松田龍平も、ある時、「俺さ、本当は宇宙人なんだ」と、妻の長澤まさみに向かって自らの正体をあっさり打ち明ける。生者と死者が一つの画面内で平然と肩を並べるまぎれもない現代の幽霊譚である『岸辺の旅』、あるいは『ダゲレオタイプの女』(2016)と、この『散歩する侵略者』とでは、作品のトーンに大きな隔たりがあるものの、しかし、『散歩する侵略者』もそれらの作品と同様、近年の黒沢映画の中で次第に大きな比重を占めるようになった美しいラブ・ストーリーでもある。

松田龍平と長澤まさみとの気になる愛情と夫婦関係の行く末は、ぜひ皆さんがご自身の目で映画を見て、その感動を存分に味わって頂きたいが、「愛」という概念をまるで知らない宇宙人・松田龍平と、長澤まさみとの間で繰り広げられる息詰まる葛藤劇と、大いなる「愛のレッスン」の影に、筆者としては、先ほどざっと列挙した映画作家たちのほかにもう一人、黒沢監督を語る上では重要不可欠なビッグネーム、ジャン=リュック・ゴダールの異色のSF映画『アルファヴィル』(1965)の匂いもふと嗅ぎ取ってしまったことを、最後にそっと言い添えておこう。


[2016.10.6 旧ブログ「In A Lonely Place」にアップしたものを若干短縮した]