●『イマジン』(2012 アンジェイ・ヤキモフスキ)(蔵出し原稿)

2019年05月25日

今回は、現在フィルムセンターで開催中の「EUフィルムデーズ2016」特集で再見したポーランド映画の『イマジン』について書くことにしたい。

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実はこの作品は、去年筆者が見たさまざまな新作映画の中でも、その独創的かつ繊細きわまりない演出に深く魅了され、思わず滂沱の涙を流すこととなった、個人的にはトップ3に入るお気に入り映画の1本(その前年、本邦初公開の場となった「ポーランド映画祭2014」では、残念ながら見逃した)。今回、特集に合わせて来日したアンジェイ・ヤキモフスキ監督の舞台挨拶付きで映画を再見し、さらには、同監督がさまざまな映画の抜粋上映を交えて自らの映画世界を振り返った特別プログラム「アンジェイ・ヤキモフスキの世界」もしっかり拝聴した後、本来ならただちにこの文章に取りかかるべきだったものの、別件に追われてなかなか時間的・精神的余裕が取れずヤキモキする間に、イギリスのEUからの離脱が決定して世の中すっかり、それどころじゃない騒ぎとなり、映画を紹介するタイミングが猶更ズレてしまった感じは否めないものの、この『イマジン』は既にソフト化もされて、各自楽しむ機会は十分にあるはずなので、やはりここでこの珠玉の逸品を取り上げて、その何ともユニークで奥深い映画世界の魅力を、ぜひ多くの人に分かち合ってもらいたいと思う。

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映画『イマジン』は、ポルトガルの首都リスボンにある、古い修道院を利用した視覚障害者のための診療所に、主人公のイアンが新任のインストラクターとしてやって来るところから始まる。彼自身も盲目で普段は黒いサングラスをかけているイアンは、自らの指や舌を打ち鳴らし、その反響音から周囲の状況や障害物を鋭く察知・把握する、"反響定位"なるユニークな方法の熟練者で、視覚障害者用の白い杖なしに自由に身動きできる、何とも不思議な能力を持つカリスマ的人物。彼は、各国から診療所に集まった盲目の子供たちに、型破りな実践的授業を行なって、彼らの好奇心を煽り、その柔軟で感受性豊かな想像力をのびのびと養っていく。耳を澄ませて周囲の物音によく聞き入り、あるいは嗅覚を働かせて、自分たちの目の前に広がる光景を彼らの脳裏に活き活きと思い描かせながら、勇気をもって外の世界へと足を踏み出すことの大切さを、イアンは子供たちに教え込んでいくのだ。

そんな彼の不思議な魅力に釣り込まれるようにして、それまでとかく一人で自室に閉じこもりがちだった盲目の美しい成人女性エヴァも、いつしかイアンの授業に参加するようになり、そして、彼女自身が口にした「大きな船を見た」という言葉がはたして真実かどうかを確かめるべく、ついには彼と共に診療所から外へ思い切って飛び出し、さまざまな通行人に加え、車やバイク、さらには路面電車がひっきりなしに行き交うリスボンの街角を、危険と紙一重のスリルと刺激を味わいながら、自由に散策することとなる。

"反響定位"という、実際に一部の視覚障害者たちの間で用いられている超絶テクニックを活用した主人公イアンの鋭敏な知覚能力と、正確無比な判断力や動作、そしてまた、イアンとエヴァという主役の男女を演じる2人のプロの俳優以外は、本物の視覚障害者の子供たちをキャストに配して撮影が行われたという、さまざまな場面における迫真の緊張感と人物たちの生々しい表情や存在感を、固唾を呑んで見つめることのスリリングな面白さもさることながら、筆者の心を深く捉えたこの『イマジン』の真に括目すべきユニークな魅力は、作者のヤキモフスキ監督が全編にわたって周到に張りめぐらせた、音と映像がお互いの距離を伸縮させながら織り成す刺激的な対話・葛藤劇にこそ宿っている。

同監督の大胆不敵で野心的な演出プランの意図は、映画のオープニング場面に既にはっきり見て取ることができるだろう。この映画は冒頭、黒画面に白抜きの小さな文字で「私の妻エヴァに」という献辞が映し出された後(彼女の名前が本作のヒロインと同じエヴァであるのは、無論ただの偶然ではない、とは監督自身の弁)、鳥がさえずる声や空中を羽ばたく翼の音などをバックに、クレジット紹介が進む間に、画面上に何やらぼんやりと正体不明のイメージが現れ、それがゆるやかに焦点を結んでいくと、本作の主要舞台となる診療所の白い漆喰塗の建物の前に1頭の犬がうずくまっている光景がくっきりと浮かび上がり、鳥の音以外にバックに流れていた奇妙な物音は、その犬が発する喘ぎ声であったことが、観客にもようやく了解されることになる(それからもう少し後になって、鳥のさえずりや羽ばたきの音は、診療所内を飛び回る鳩の群れがたてていたことが、これまた実際の画面で示される)。

物語の前半では、診療所の施設内にある中庭、あるいは外の街路に面した施設内の廊下で、イアンと生徒たちが、各自の聴覚や嗅覚を研ぎ澄ませながら、目の前や外界の光景をお互いにあてっこする授業風景が劇中で何度か繰り返されるが、ここでもヤキモフスキ監督は同様の凝った演出をさりげなく披露している。はじめのうちこそ、子供たちが耳を澄ませて聞き取った物音から周囲の状況を思い思いに推測するさまと、彼らのその推測を裏付けたり、裏切ったりする実際の光景を、画面上で交互に繋いで答え合わせをする場面も出てくる。けれども、両者の距離は次第に間遠になっていき、例えばイアンが、「いま猫が我々の目の前を通った」と、ほかの誰もが気づかなかった意想外のことを指摘しても、その後それを実証する画面がなかなか登場しないため、彼の発言の信憑性は問われたまま、しばらく宙に浮き、イアンは実はありもしないことをその場で適当にでっち上げたのではないかと、彼の超人的能力そのものをあやしいと思って疑う者たちも出てくることになるのだ。

かくして、聴覚を刺激するさまざまな音響と、本来その音源たるべき何らかの物体がなかなか画面上では一つに合致せず、聴覚と視覚の認識におけるそのズレや亀裂が、観客の意識をしばし宙吊り状態に置いて心の奥底に不安と期待を同時に掻き立て、さまざまな緊張とスリルを孕みながら何とも気がかりなドラマが推移していくという、本作独自のサスペンスがここから醸成されることになる。

はたしてイアンは、視覚障害者の子供たちやエヴァにとって、救世主たるヒーローなのか、それとも仮面を被った、ただのペテン師なのか。時に生徒たちを危険なリスクにさらしかねない彼の型破りな教育法に懸念を抱く診療所の所長や職員、そしてエヴァや子供たちを前にして、イアンは自らが持つ"反響定位"の能力を、改めてみんなに証明してみせる試練に立たされることとなる。そしてこの場面において、ヤキモフスキ監督は、それまで我々観客や生徒たちにしばらくお預けにしていた、音と映像とが互いに隔て合うことなくピタリと合致する瞬間を的確な演出で浮き彫りにし、ささやかな奇蹟を現出させてみせるのだ。ここで詳述するのはあえて避け、その場面はぜひ見てのお楽しみということにしておくが、この場で高らかに鳴り響くベルの音と、それに合わせて歓声を上げる子供たちの輝くような笑顔を、我々観客も一丸となって見聞きする幸福な一体感や高揚感は、何ものにも代えがたい。

けれども、この幸福な瞬間は、残念ながら長くは続かない。その後『イマジン』のドラマは、なおも山あり谷ありの波瀾万丈の展開を辿ることになるが、ここから先は、やはりぜひ皆さんが、各自の目と耳を大きく見開いた上で、近年稀なその美しいメロドラマ世界を存分に堪能してもらいたいと思う。映画の最後には、特大の感動がダブルで待ち構えていることをここに約束しよう。これまでの筆者の説明で、勘の鋭い読者なら、最初の方はあるいは察しが付くかもしれないが、ラストの締め括り方の鮮やかさには、筆者もただ感嘆するばかりで、泣けて泣けて仕方ありませんでした...。

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さて、このように、『イマジン』の構成原理たる、音と映像が切り結ぶ特異な関係性について説明を書き連ねてみると、映画通ならば、つい頭に思い浮かぶ事柄が出てくるのではないだろうか。すなわち、従来のものとは異なる音(son)と映像(image)の結びつきの新たな可能性を問い直すべく、ジャン=リュック・ゴダールが唱えた、例の"ソニマージュ(sonimage)"なる方法論のことを。あるいはもしかすると、現代日本映画界の異才・七里圭監督のユニークな試みを思い浮かべる人も、少数ながらいるかもしれない。

実は何を隠そう、筆者自身、『イマジン』を初めて見た時につい頭に思い浮かべたのが、ほかならぬ七里監督のことで、拙文をここに引用するのは何とも恐縮だが、同監督が2014年の春に行ったライブ・イベント『映画としての音楽』について、筆者は、パンフレット用の解説文の中に、次のような一節を書き記していたのだった。

  • ...そう、つまり、この『映画としての音楽』は、トーキーの登場以後、映画と音楽が一体化し、それが長年の間にすっかり一つの制度として定着して共依存の関係性がますます強固となっていくなか、その時代の波にあえて抗って、そこに鋭利なメスを入れて両者をいったん切断し、映画と音楽の間に本来あるべき距離を回復させて、お互いの間のズレや亀裂こそが観客=聴衆にもたらす想像力の豊かな広がりを確保したいと願う、七里監督の果敢で真剣極まりない挑戦的試みなのだ。

ここで上記の文章のうち、一部の語句を入れ替えて、

  • ...そう、つまり、この『イマジン』は、トーキーの登場以後、映画の映像と音響が一体化し、それが長年の間にすっかり一つの制度として定着して共依存の関係性がますます強固となっていくなか、その時代の波にあえて抗って、そこに鋭利なメスを入れて両者をいったん切断し、映像と音響の間に本来あるべき距離を回復させて、お互いの間のズレや亀裂こそが観客=聴衆にもたらす想像力の豊かな広がりを確保したいと願う、ヤキモフスキ監督の果敢で真剣極まりない挑戦的試みなのだ。

と言い換えることも、充分可能なように思う。無論、ヤキモフスキ監督と七里監督の作品は、内容もスタイルも大きく異なっていて、両者を単に一緒くたに並べるだけでは、さしたる意義があるとも思えないが、音と映像の関係性に対する自覚的な意識の高さという点で、現代映画において2人は際立った存在と言えると思うので、興味をそそられた方は機会があれば、両者を見比べてみることをお薦めしたい。

*『映画としての音楽』の解説文のうち、約半分が下記のサイトに掲載されているので、興味のある方はご参照ください。ただし、上に引用した一文は、残りの後半部分に出てくる一節なので、下記の文章中には出ていません、一応念のため。

https://bit.ly/2Hl0b5X

[付記:ちなみに、上記の解説の全文は、連続講座「映画以内、映画以後、映画辺境」第一回~第三回全発言採録に収録されているほか、『あなたはわたしじゃない』(2018)のパンフレットと兼用で作られた「音から作る映画 全記録2014―2018」に、その縮約版が収録されているので、そちらもよろしかったら参照ください。]

*ゴダールのソニマージュに関しては、以下もどうかご参照ください。

https://bit.ly/30JZHxW 


[2016.6.30 旧ブログ「In A Lonely Place」にアップ]