●「映画が縦長になったらどうなるか?」 ― 七里圭監督映画講座 拝聴記(蔵出し原稿)

2019年05月15日

オーソン・ウェルズの話が続いたので、ここらで少し話題を変えて......、

もうかれこれ3週間ほど前の出来事になってしまったが、先月の3月24日、渋谷のアップリンクで催された七里圭監督主宰の映画講座を拝聴しに出かけて、いつもながらにユニークで示唆に富んだ内容に新鮮な刺激と興奮を覚えたので、ここでそれを筆者なりに振り返って、その概要を簡単に報告することにしたい(あくまで筆者個人による整理・要約で、正確性に欠ける箇所や意図せぬ誤解等があるかも入れないが、そこはどうかご容赦のほどを)。

『のんきな姉さん』(2004)、『眠り姫』(2007)など、その独特の風変わりな作品で知る人ぞ知る現代の異才、七里監督が、ドン・シーゲルの傑作『ボディ・スナッチャー/盗まれた街』(1956)を引き合いに出しながら、昨今の映画状況をめぐる自らのぼんやりとした違和感―映画が、いつのまにかその実体を何者かに乗っ取られて、映画に似てはいるがどこか違う何かになりつつあるのではないか...?―を出発点に、「映画以内、映画以後、映画辺境」と題して、アップリンクで映画に関する連続講座を本格的に始めたのは、2014年の2月からのこと。それ以来、同監督が、吉田広明氏をはじめ、渡邊大輔氏、小沼純一氏、平倉圭氏、土居伸彰氏、荻野洋一氏、金子遊氏......等々、さまざまなゲストを招きながら、毎回、何らかのテーマを設定して議論を重ね、その内容を掘り下げてきたこの連続講座は、シーゲルの熱狂的ファンを自認し、まがりなりにも映画批評に携わる筆者にとって決して他人事の話ではなく、毎回努めて足を運んでは、その刺激的な議論の行く末を注視・拝聴してきた。https://bit.ly/2VILaUw

そしてまた、その間に、七里監督は、それらの連続講座での議論を通じて深めた認識を実作にフィードバックする形で、『映画としての音楽』(2014)、『サロメの娘』(2015)、『サロメの娘アナザサイド in progress』(2016)と、その実験的な作風をますます先鋭化させながら、注目すべき新作を次々と着実に生み出している。通常の劇映画とは随分と様相を異にするこれらの作品を、いざ言葉にして説明するのはなかなか至難の業だが、『映画としての音楽』に関して、筆者は以前、何とかその解説を試みたことがあるので、よろしければ以下の拙文を参照のこと。

https://bit.ly/2Hl0b5X 

[付記:ちなみに、上記の解説の全文は、連続講座「映画以内、映画以後、映画辺境」第一回~第三回全発言採録に収録されているほか、『あなたはわたしじゃない』(2018)のパンフレットと兼用で作られた「音から作る映画 全記録2014―2018」に、その縮約版が収録されているので、そちらもよろしかったら参照ください。]


なお、この『映画としての音楽』のサウンドトラックをさらに全面改訂したインターナショナル・ヴァージョンの『Music as film』(2016)が、七里監督の最新作として、イメージフォーラム・フェスティヴァル2016の招待作品として来月初上映されるので、これも期待大。皆さんもぜひ、会場へ見に駆けつけて頂きたい。

https://bit.ly/2YvU04J


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さて、先日行われた講座は、2014年2月の連続講座開始から数えて第13回、昨秋からの第3期を締め括る最終回にあたるもので、今回のゲストは、批評家・ミュージシャンの大谷能生氏と、フィルムセンター主任研究員である岡田秀則氏の2名。そして、お題は、「映画が縦長になったらどうなるか? ~スクリーンの形の意味と可能性について~」というもの。

大谷氏は、2015年2月に行われた当講座の第8回にもやはりゲストの1人として登壇し、映画の歴史はそもそも、リュミエール兄弟の発明した映写式のシネマトグラフと、エジソンの発明による覗き見式のキネトスコープという2つの相異なるシステムが並走する形で始まったのに、いつしかリュミエール式の集団鑑賞型の映画が主流をなすようになって、個人鑑賞型のエジソン式の映画は廃れて忘れ去られるようになった。しかし、エジソン式の映画は決してそれで完全に淘汰されたわけではなく、むしろ最近の状況を見渡してみるならば、今日、多くの人々が、ビデオやDVD、あるいはPCやスマホ等でパーソナルに映画を楽しんでいるように、実は現代に回帰しつつあり、本来、個々人がこっそり覗き見てひそかに楽しみたいという、いったんは歴史に抑圧されたエジソン式映画の欲望・快楽原則が再び解放され、今やいっそう前面に押し出されて逆流しつつあるのではないかという、思わず目から鱗が落ちるような卓見を披露して、大いに議論を活性化させていたのだった。

「映画が縦長になったらどうなるか?」という、今回のいささか奇を衒った挑発的なテーマ設定も、実はその第8回の講座の最後の方で大谷氏がふと漏らした疑問が出発点となっていて、そもそも一体なぜ映画のスクリーンは横長であって、縦長ではないのか? 今や皆、スマホやタブレットを縦画面にしながら、動画を見るということをごく普通に平気でやっているのに、なぜいまだにスクリーンは横長のままなのだろう? という、そこで新たに投げかけられた課題に改めて取り組むべく、今回の講座が設けられたような次第。

それを受けて、今回の講座でははじめに、七里監督と岡田氏との質疑応答によって、

①映画の発明に先立って、19世紀後半、ジョージ・イーストマンの手により、映画の撮影に必要なロールフィルムがまずは発明され、その大本の初期設定において決定されたフィルムの横長のアスペクト比が、映画の画面サイズを規定するようになったこと、

②サイレント映画からトーキー映画への移行期に、フィルムの横にサウンドトラックの帯が付けられるようになったことから、この時期、縦横の画面アスペクト比に変化が生じて、画面サイズがいくらか正方形に近づいたこと、

③1950年代、TVの発明に対抗すべく、シネラマ方式による映画『これがシネラマだ』(1952 アーネスト・B・シェードサック)が登場し、いっそう横長のワイドスクリーン時代が映画界に華々しく到来したこと、等々、映画とスクリーン・サイズの変遷の歴史をざっと簡単に振り返り、

(スクリーン・サイズの変遷に関してより詳細に学びたいと思う方は、こちらへどうぞ↓)https://bit.ly/2JLK56O

さらに、最近は海外でも実際に、「ヴァーティカル・シネマ(垂直映画)」なる名称のもと、スクリーンを従来のように横長の形ではなく、あえて縦長の垂直方向に設置し、そこに、各国から参加した実験映画作家やヴィジュアル・アーティストたち(日本からも牧野貴が参加)がそれ専用に作り上げた映像作品を上映するという実験的なプログラムが、2013年、オーストリアのあるフェスティヴァルで初めて組まれ、以後もオランダやドイツなど、各地で巡回上映されているという例が、紹介された。

https://bit.ly/1hp1GAn


その上で、さて映画を縦長の画面にして見てみると一体どうなるのか、実際に試してみよう! ということで、七里監督が、さまざまな既存の映画の抜粋場面を、画面の左右を黒味で覆ってトリミングし、強引に縦長の画面に仕立て直した上で、修正前と修正後の両方の場面を見比べるという、何とも風変わりな実験的試みが、その日会場に集まった聴衆たちを前にして、いざ繰り広げられることになったのだった。

そこで実験のサンプルに選び出されたのは、お馴染みの怪獣がエンパイア・ステート・ビルを攀じ登る『キング・コング』(1933 メリアン・C・クーパー&アーネスト・B・シェードサック)をはじめ、フレッド・アステアが重力を超越して部屋の壁や天井を優雅に踊り回る『恋愛準決勝戦』(1951 スタンリー・ドーネン)のミュージカル・シーン、藤純子と菅原文太が浅草の凌雲閣で敵方と対決する『緋牡丹博徒 お竜参上』(1970 加藤泰)のクライマックスなど、古今東西のさまざまな映画の一場面。

できればここで、あえて縦長に加工されたそれらの抜粋場面を、加工前のオリジナル版と並べて、皆さんにも見比べられるようにすれば、一目瞭然で話は早いのだが、このブログ内でそれをするのは、やはり何かと差し障りがあって憚られるので、残念ながらそれはパス。その代わり、やはり当日、畏れ多くも実験台の1つとして用いられた『捜索者』(1956 ジョン・フォード)の有名なオープニングとエンディングの場面を、ここではユーチューブで見てもらって、その完璧なまでに美しいヴィスタ画面の構図が、縦長の加工版ではすっかり台無しとなってしまうさまを、各自、頭の中に思い描いて頂くことにしよう(当日の会場では、思わず、ああっという悲鳴にも近い嘆声が、至る所から上がった)。

https://bit.ly/2Q2utx2

https://bit.ly/2Jl0lN2

一方、それとは対照的に、学校内の廊下や教室をうろつき回る登場人物を、キャメラがひたすら背後からフォローして追いかける『エレファント』(2003 ガス・ヴァン・サント)のような映画の場合、画面の両端をトリミングして縦長に加工しても、さほどのダメージはなく、かえって切迫した緊張感や臨場感が増して、セミドキュメンタリー・タッチのドラマやホラー映画とは、案外よくフィットするかもしれない、という可能性が垣間見えたのだった。

https://bit.ly/2JG82Na

さらに、七里監督が、ではロマンポルノをいざ縦長にして見てみるとどうなるか、と言って持ち出してきたのが、『黒薔薇昇天』(1975 神代辰巳)の一場面。岸田森と谷ナオミが狭い室内で横たわり、肉体を重ねてねちっこく絡み合う濡れ場のシーンが、強引に縦長の画面にトリミングされることによって、さぞかしすべてがぶち壊しになるかと思いきや、あーら、不思議、神代監督の絶妙の演出と鮮やかな場面転換、そして、ここぞとばかりにタイミングをうまく見計らった七里監督の見事な加工技術により、場内大爆笑のこの日一番の愉快な見せ場がそこに現れいでたのだったが(これぞまさに「悶絶!!どんでん返し」!)、やはりその場面は少々刺激が強すぎて、ここでは皆さんにお見せできないのが、何とも残念なところ。興味をそそられた方は、ぜひご自分で『黒薔薇昇天』をご覧になって、当該場面がどこなのか、探し当ててみてください。

上記のほかにも、画面のフレームが、通常の横長サイズだけではなく、円形や卵型になったり、あるいは、縦型の四角やギザギザの切り抜きになったりと、映画の全編を通じてころころ変わる、御存知、艶笑喜劇の名手エルンスト・ルビッチのぶったまげたサイレント喜劇の珍品『山猫リシュカ』(1921)や、あるいは我が国でも、木下恵介監督が主人公の回想場面で画面のフレームを楕円形に縁どった『野菊の如き君なりき』(1955)、といった異色の試みも紹介され、

https://bit.ly/2JALE7M

https://bit.ly/30omi35

なかなか楽しく愉快で、なおかつ啓発的で示唆に富んだ、充実した一夜を過ごすことができたのだった。

先にも述べたように、七里監督のアップリンクでの連続講座はこの回をもってひとまず第3期の終了を迎えたが、最新作『Music as film』の来月のお披露目上映を経て、次の第4期の開講準備に向けて目下英気を養っているとのことなので、ぜひ括目して待つこととしよう。

[2016.4.14 旧ブログ「In A Lonely Place」にアップ]