●“自由の国”アメリカへようこそ !? ― 『ノー・エスケープ 自由への国境』(2015 ホナス・キュアロン) (蔵出し原稿)

2019年02月13日

今回は、久々に新作映画を本ブログで紹介することにしたい。映画の邦題は『ノー・エスケープ 自由への国境』だが、原題はごく簡潔に「DESIERTO」の一語で、これはスペイン語で"砂漠"を意味する。

物語の舞台となるのは、その原題通り、メキシコとアメリカの国境沿いの砂漠地帯。各自よんどころない事情を抱え、メキシコからアメリカへ不法入国を試みようとする15名の男女の越境者たちが、彼らを乗せたトラックの思わぬ故障により、目の前に荒涼と広がる灼熱の砂漠地帯をやむなく徒歩で行進し始めるなか、不意にどこからともなく飛んできたライフルの銃弾が次々と彼らを襲撃。1人、また1人と無残に射殺されて倒れていき、越境者の一団がたちまちパニック状態に陥る一方、遠くからその様子を眺めていた冷酷非情で不敵なアメリカ人の狙撃者(アメリカン・スナイパー!)は、「自由の国へようこそ」と憎らしげに言い放つ。かくして、越境者たちの生き残りを懸けた必死の逃走と、獰猛な殺人犬を忠実なお供に従えて彼らの後を執拗に追いかける不気味なアメリカ人マンハンターとの熾烈な闘争のドラマが、いざここに開幕することとなる...。

監督のホナス・キュアロンは、現代メキシコ映画界きっての俊才、アルフォンソ・キュアロンの息子で、1981年生まれ。無重力の宇宙空間に突如放り出された2人の宇宙飛行士の必死のサヴァイバルを、斬新な映像スタイルとトリッキーなアイディア満載で描いて、第86回アカデミー賞で監督賞をはじめ、計7部門を受賞したあの話題作『ゼロ・グラビティ』(2013)では、監督である父親のアルフォンソと共同で脚本を執筆。その父親の共同製作の下、この『ノー・エスケープ 自由への国境』でホナスは、共同製作・共同脚本・編集も兼ねて念願の商業長編劇映画監督デビューを果たしたが、映画作りの構想を練っていたのは元来、『ゼロ・グラビティ』よりも本作の方が先といい、結局、最初の構想以来、8年もの歳月を経て、2015年にこの『ノー・エスケープ 自由への国境』は完成。はからずも日本では、何ともホットでタイムリーな形で2017年の春、この要注目作が劇場公開されることとなった。

アメリカとメキシコの国境を舞台にした、といえば、今や何かと話題になるのが、御存知、トランプ米大統領。アメリカとメキシコ間の国境に壁を築く、という彼の何とも人騒がせな公約がはたして本当に実現するかどうか、壁建設のための予算案が米議会で猛反対に遭い、どうやらひとまず先送りになることが決まったものの、今後の行方はなお予断を許さない。

しかし、別にことさら、トランプのまったく始末に困る排外主義丸出しの言動などをあえて取り上げるまでもなく、映画の歴史において、アメリカとメキシコの間には、政治や経済をはじめ、さまざまな面において圧倒的な格差が存在する現実を背景に、昔から今日に至るまで長年ずっと、見えざる壁が厳然と大きく立ちはだかり続けていることを、ここで改めてしっかりと思い起こす必要があるだろう。

例えば、西部劇。西部劇とはまず何より、アメリカの開拓者たちが、西へ西へと次第に歩を進めながら、未開の西部の荒野を開墾・平定し、そこに法と秩序、文明をもたらすフロンティア征服の物語、と言うことができる。そこではたえず、文明と未開、法と無法、善と悪という単純明快な二分法が、その世界観を強力に支配していて、基本的には、アメリカの東部と西部がその両極をそれぞれ代表・象徴することになるわけだが、それとはまた別に、西部劇においてはしばしばメキシコとの国境地帯が物語の舞台として登場し、その国境線がそのまま、文明と未開、法と無法の明確な分かれ道として映画の中で描かれることが多い。国境の手前までは、アメリカの法と秩序が及ぶ安全地帯だが、ひとたび国境線を越えてメキシコへ足を踏み入れると、たちまちそこでは、混沌とした無秩序と野蛮な暴力が牙を剝いて人々を危険へと陥れ、時には死の底へ突き落としかねない、というわけだ。

この時、メキシコは、次第に形や秩序を整えながら法治国家への道を歩むアメリカとは別の側に自動的に振り分けられ、暴力的で危険な未開の国として位置づけられる(メキシコ革命さなかの同国が物語の時代背景に選ばれることも多いが、それがまた、政情不安で一向に国の秩序や体制が整わないメキシコの危なっかしさを一層強調することに貢献している)。そしてまた、時にメキシコは、その裏返しとして、アメリカの社会の中ではなかなか自らの居場所を見つけられないアウトサイダーやアウトローたちに、ある種、自由でのびのびとした解放天国か、どこぞに黄金か宝の山が眠る楽園のようなユートピアを夢見させることにもなるわけだが、そうしたことをよく物語る恰好の映画の実例としては、サム・ペキンパーの諸作品、とりわけ『ワイルドバンチ』(1969)や『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』(1973)あたりを思い浮かべるのが手っ取り早い。

あるいはまた、それらに先立つ『ヴェラクルス』(1954 ロバート・アルドリッチ)や、御存知、『七人の侍』(1954黒澤明)の物語をメキシコの地に移し替えて翻案した『荒野の7人』(1960 ジョン・スタージェス)などを想起してもいいだろう。そして、これまた黒澤明の映画『用心棒』(1961)を翻案、というより無断で盗作したイタリア製のまがい物の西部劇、すなわち、"マカロニ・ウェスタン"のブームの火付け役となった、クリント・イーストウッド主演の『荒野の用心棒』(1964 セルジオ・レオーネ)が、まさにメキシコの地を物語の舞台に据えて(ただし、実際の映画の撮影地は、メキシコではなくてヨーロッパの国スペイン)、血塗られた暴力が支配する同地の危険な無法地帯ぶりを、世界中の観客に強烈に印象付けたのだった。

これは決して、過去の西部劇だけに限られた話ではなく、現代においてもなおメキシコは、数々の映画にその物語の舞台の場を提供し続けている。最近ではやはり、『トラフィック』(2000 スティーヴン・ソダーバーグ)あたりを皮切りに、何といっても犯罪と暴力の国、とりわけ麻薬犯罪絡みの危険地帯というイメージが広く蔓延し、『悪の法則』(2013 リドリー・スコット)や『ボーダーライン』(2015 ドゥニ・ヴィルヌーヴ)などの鮮烈でショッキングな記憶が、映画ファンの脳裡にまだ生々しく焼き付いていることだろう。

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さて、以上、映画の中で長年描かれてきたメキシコの決まり切った紋切型のイメージについて、ざっと駆け足で振り返ってみたが、上記に挙げた例は基本的にどれも、個々の映画としての魅力とはまた別のところで、強者であるアメリカや白人社会の視点からメキシコを眺めて、自分たちのイデオロギーに見合った都合のいい解釈を施したものばかりと言える。

しかし、この『ノー・エスケープ 自由への国境』で、先に紹介したキュアロン父子や、共同の製作総指揮も兼任した主演スターのガエル・ガルシア・ベルナルをはじめ、憎まれ役の不気味なマンハンターを演じるアメリカの個性派男優ジェフリー・ディーン・モーガンを除く、メキシコ人の主要スタッフ・キャスト陣は、そうした外から押しつけられた自国の負のイメージを、ここではアメリカに虐げられる弱者の側の視点に立って物の見事にひっくり返し、従来の映画群とはまったく正反対の構図を作り出して見せた。

すなわち、この映画の中では、ひとたび国境線を越えてメキシコからアメリカへ足を踏み入れると、たちまちそこでは、憎悪と敵意に満ち満ちた野蛮な暴力が、文字通り牙を剝いて越境者たちに襲いかかり、彼らを恐怖のどん底へと叩きこむことになる。物語の最初の方で、国境警備のパトロールにあたるアメリカ人の警官が登場する場面もあるにはあるものの、それもほんのわずかな出番に留まり、本来、法の番人たる彼の役立たずぶりと、アメリカ領内における法の無効性がただちに明らかとなる。こうして、すっかり無法地帯と化した、荒涼として殺伐とした孤立無援の砂漠で、メキシコ人の越境者たちは、お供の愛犬と同様、すっかり獰猛な狂犬と化したアメリカ人モーガンの人狩りの標的・餌食として、たえず剥き出しの暴力に曝され続けることになるのだ。

物語の枠組み自体は、きわめてシンプルながら、荒涼とした砂漠地帯を舞台に展開される逃走・追跡劇は、随所でさまざまな創意工夫に富んでいて、迫真のスリルと緊迫感が全編にわたって持続し、88分と今どき珍しくコンパクトで短い上映分数が、あっという間。

最初の惨劇の場となる見晴らしのきく荒原を皮切りに、起伏に富んだ岩山や、サボテンや灌木の密生地など、さまざまに移り変わる地形を存分に活用し、一見広大でありながらも、どこか狭苦しくて迷宮を思わせるニッチな場所へと巧みに観客をいざなう、キュアロン監督の見事な空間造形力と緩急自在の演出が、実に効果的で素晴らしい。とりわけ、ごつごつとして入り組んだ岩肌を背に、主人公のベルナルが、すぐ間近に迫ったモーガンの視線をかいくぐりながら、必死の逃走と鬼ごっこを続ける場面、さらには、ここであえて詳述は避けるが、獰猛な殺人犬を相手にベルナルが繰り広げるアッと驚く捨て身の奇襲作戦は、ぜひ見てのお楽しみだ。

そして、メキシコとアメリカの国境沿いで繰り広げられる息詰まる死闘の行く末を見届けた後は、国境という見えざる壁をめぐって生じる、流入、越境、侵犯、交錯、反発、衝突、敵対、排除、等々、さまざまな運動のベクトルと、それをつい誘発してやまない2つの国の間の政治・経済的落差にも、今一度どうか思いを馳せて欲しい。

とはいえ、この『ノー・エスケープ 自由への国境』は、決して声高に政治的メッセージを叫ぶようなゴリゴリの社会派ドラマなどではなく、あくまでタイトで引き締まった極上のB級娯楽サスペンス。キュアロン監督は、本作を作るにあたって、『抵抗』(1956 ロベール・ブレッソン)や『激突!』(1971 スティーヴン・スピルバーグ)などのサスペンス映画を参考にしたと自ら語っているが、ブレッソンの名作の方はともかく、この『ノー・エスケープ 自由への国境』は、『激突!』くらいには充分面白くてスリル満点の会心作と言っていいのではないだろうか。

[2017.5.2  拙ブログ「In A Lonely Place」にアップ]